所持する音楽データに対する私利私欲...イヤ私情私見あふれるコメント、音楽の杜。こういった分野のものは「好み」ですし、優劣を付けるのもそぐわない気がしますので、満足度の☆はあくまで私的な思い入れです。...とは言っても、このCD、ほとんど「曲」は入っておらず、代わりに収録されているのは、エンジン音や実況アナウンス。近年はレースといえども燃費やサステナビリティが追求され、音に関しても以前の「爆音」が聴かれなくなりました。Formula Eなど電気自動車のチャンピオンシップは、レースはうるさいもの...という常識を過去のものにしようとしています。そんな過ぎ去りし過去のエンジン達が、奏でた叫びを収録した作品を、ご紹介します。
つい先日行われたF1日本グランプリ。F1は、日本では自動車レースの中で飛び抜けて高い人気を誇るが、これは20世紀にあったF1ブームの力が大きい。Ayrton Senna+HONDA+鈴鹿サーキット。この3つの組み合わせは、1990年前後の日本でのF1ブームを牽引した。
1984年F1デビューのAyrton Sennaが「勝てる」ようになったのが、翌年の1985年。特に1987年からはポイント差が上位とグッと詰まり、「4強」と呼ばれるようになる(Ayrtonの他は、Nelson PiquetとNigel Mansell、Alain Prost)。1994年に事故死するまでに、3度のワールドチャンピオン、41回の優勝、65回のポールポジションを獲得した。
HONDAは、1983年からエンジンサプライヤーとしてF1に再参戦。1984年には当時のトップチームのひとつ、Williamsとタッグを組み、ターボエンジンの高馬力と、ターボのわりに低く抑えられた燃費と良好なドライバビリティを活かしてタイトルを取っていく。その後供給先がMcLarenとLotusとなった後、レギュレーションでターボ禁止となったが、V10エンジンで天下を取り、よりハイパワーなV12へつなげていく。最終的に、1992年に活動を休止するまでに、足掛け10年で通算69勝を挙げ、F1界に存在感を示した。
鈴鹿サーキットは、オランダ出身のレースサーキット設計者John Hugenholtzが設計したサーキットで、タイヤが左右均等に減るように設計されたという、珍しい立体交差を持つ8の字型のサーキット。非常にテクニカルかつリズミカルな設計で、ストレートとカーブがテンポ良く配置され、スパ=フランコルシャンとともに、ドライバーからの人気が高いサーキット。彼らに「神が造ったサーキット」とさえ呼ばれるこのサーキットが、日本でのF1定期開催を招致したのが1987年。
つまりAyrton Senna+HONDA+鈴鹿サーキットという、日本でのF1人気を牽引した3者のコラボと言うことで、鈴鹿サーキットでAyrtonが使ったマシンのエンジン音や、ピットとの通信内容、TV実況などの一部を収めたSE CDが、“SUZUKA SAGA~SUZUKA CHAMPIONS’ HISTORY1987-1993~ ”(厳密にはHONDAは1992年までの参加なので、1993はHONDA抜き)。
まず最初のトラック「GROWING UP 1987」の年は、Ayrtonの乗機は、彼を印象づけている赤白カラーのMcLarenではなく、HONDAとしては「二軍」のLotus。黄色いCAMELカラーに塗られたLotus 99Tは、セカンドドライバーに日本人の中嶋悟を迎えたのもあり、日本でも人気が高かった。このときのエンジンは、1.5L V6ツインターボのRA167E。トラックの最初にAyrtonが自分の名前の発音の仕方を応えるインタビューの音声が収められている。このバックに、単独の甲高いHONDAエンジンサウンドが収められているが、これはこの年に搭載されていたRA167Eではなく、1992年の最終型NA V12の3.5L RA122Eのエンジンサウンドらしい。
「FIRST CHAMPIONSHIP 1988」は、HONDAエンジンを積んだMcLaren MP4/4で戦ったAyrtonの走り。このMcLaren MP4/4はAlain ProstとのジョイントNo.1でドライヴされたが、両者ノーポイントに終わったイタリアグランプリ以外の全16戦中15戦、AyrtonかAlainのいずれかが優勝しているという、歴史に残る「無敵」の車。搭載エンジンは1.5L V6ツインターボのRA168E。Ayrtonはこの鈴鹿サーキットで初めてワールドチャンピオンになるが、実はスタート失敗でポールポジションから一時13番手に落ちる、そこから大逆転で優勝し、結果としてのポールトゥウィン。その状況を伝える興奮しきった実況と、終了後の感動に震えるAyrtonの声が若い。
「BYE HONDA 1992」に収められる1992年のHONDAの鈴鹿は、NA V10で頂点を極めたあと、満を持してV12エンジンを送り出したものの、車体性能と合わず、成績は下り坂になり、撤退を決めたあとの戦い。McLaren MP4/7Aに詰まれたのは、3.5L V12のRA122E/B。トラックは、アクティブサスペンションやトラクションコントロールを備えたハイテクマシン、Williams FW14/Bを駆って、レースはリタイヤしなければ全て1位か2位という圧倒的な強さを誇ったNigel Mansellが、僚友Riccardo Patreseとともにフロントロウを独占する劣勢の中、鈴鹿では予選3位につけたAyrtonの、HONDAへの惜別を語る長いインタビューと、わずか2周で「終わった」HONDAエンジンを嘆く実況でまとめられている。
ラストの「LAST LAUREL 1993 A LATCHKY」は、HONDAが去った後、3.5L NA V8のFord cosworth HBを積んだMcLaren MP4/8で戦ったAyrtonのセリフが長い。F1グランプリ中盤で苦戦し、日本グランプリの頃には、宿敵?Alainのワールドチャンピオンが決まっていたが、この鈴鹿を含む最後の2戦はAyrtonが意地を見せ、2連勝する。このAyrtonの鈴鹿でのラストランは、最後は「圧勝」となり、詰めかけた鈴鹿の熱心なファンに向けてクールダウン気味に手を振りながら最終周を走るAyrtonの姿を実況が伝える。ラストのAyrtonのインタビューに重なるように、F1グランプリTV中継のエンディングテーマに使われていた「A LATCHKY」が流れる。
Ayrtonは翌年、前年に最強を誇ったWilliamsへ念願の移籍を果たしたが、1994年型FW16は、ハイテク技術禁止により、一発は速いものの、非常にナーバスなマシンとなっており、第3戦のサンマリノグランプリで高速度でコースアウト、Ayrtonは還らぬ人となる。彼が切望したWilliamsで、鈴鹿を走ることはなかった。
現在もF1グランプリは続いており、日本では体育の日を中心とした日程で、鈴鹿サーキットで行われているが、エンジンは1.6LのV6ターボ・ハイブリッド形式となっており、かつての甲高い「爆音」からはほど遠いものとなっている。
本作は、20世紀末のF1ブームを支えた、鈴鹿サーキットでのAyrton Sennaの戦いと、HONDAサウンドを、この時期には懐かしく思い返せるSE集です。
【収録内容】
1. GROWING UP 1987
2. FIRST CHAMPIONSHIP 1988
3. AGONY 1989
4. REVENGE 1990
5. SUZUKA MASTER 1991
6. BYE HONDA 1992
7. LAST LAUREL 1993 A LATCHKY
「A LATCHKY」
あの頃の想い出がある人向けか
この時期になると想い出す、鈴鹿での熱い戦い。
この後F1は、前々年のNigelと前年のAlainの引退、Ayrtonの事故死で、かつてのスタープレイヤーが一度にごっそりと抜け、新世代の“皇帝”Michael Schumacherの台頭により、ワンサイドゲームとなるグランプリが多くなり、HONDAの撤退もあって日本では急速に熱が冷めたが、今から思い返しても、ドライビングに性格が表れるドライバーが多かったこの頃が一番楽しかったなって。
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購入金額
2,747円
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購入日
1994年頃
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購入場所
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