今年のル・マン24時間レースは、最高峰のLMP1クラスのメーカーワークスがトヨタただ1社であり、無風状態のまま優勝を飾ったわけですが、今から27年も前、1991年に日本車として初めてこの長い伝統を誇る耐久レースを制したのがマツダでした。
伝統のル・マン24時間もこの頃はFIAのルール改正に翻弄されていた時代でした。単独の自動車レースという形ではなく、SWC(スポーツカー選手権)の1レースとして組み込まれ、ル・マンに参加するためにはSWCの他のレースにも全戦参戦が義務づけられていたほか、各チームのマシンも当時のF1マシンと同じ3.5ℓNA(自然吸気)エンジンへの統一が義務づけられていたのです。マツダは当時独自のロータリーエンジンによる参戦でしたので、この規則では長年続けてきたル・マンへの出場自体が認められなくなってしまいます。SWCへの全戦参戦についてはフランスのプライベーター、オレカに自社マシンを1台貸与してレースへの参加を任せて何とか出場権は確保していました。
もっとも、レギュレーション改定には他の大手も含めたメーカー側の反発が大きく、マシンの準備が整わないことを各メーカーが主張した結果、1991年シーズンは従来型のプロトタイプカー(Cカー)も、ハンディキャップを与えることで参戦が認められるという、ギリギリの状態でのマツダの参戦でした。マツダは前年参加して散々な結果だったマツダ787を1台、787をベースにより高速性能を追求した改良型である、787Bを2台の計3台で参戦となりました。
他の大手メーカーは日本の日産(前年に予選でポールポジションを獲得するなど、優勝に最も近いと思われていました)、トヨタは参戦を見合わせ、欧州勢もメルセデス、ジャガーは3.5ℓNA車も一応参加はさせたものの序盤だけですぐに走行を取りやめ、従来型Cカーでのレースを展開することになります。もっとも、唯一新規格の3.5ℓNAに積極的だったプジョーは、この規格のプジョー905を2台参戦させ、うち1台は約6時間でリタイヤするまでレースを引っ張り続けていました。
その後はメルセデス、ジャガー、マツダのメーカーワークス3社の車が上位争いを展開します。レースを終始優勢に進めたのはメルセデスであり、マツダはラップタイムの安定度は群を抜いていたもののトップスピードは他社には及ばず、ジャガーは背負ったハンディキャップにより燃費が伸びず、レース中盤以降はペースを維持し続け上位の脱落を待つ展開となります。
メルセデスは中盤まで完全にレースを支配していたものの、徐々にトラブル等で牙城が崩れ始めます。それを見たマツダチームのマネージャー、ジャッキー・イクスは安定してラップを刻み続け3位に上がっていた787B 55号車に対してペースアップを指示します。これはドイツ人のチームであるメルセデスは、後ろから追い上げることで過剰反応して、十分なマージンがあっても無理にペースを上げてくるだろうという読みからでした。この読みは見事に的中し、前を走っていた2台のメルセデスC11は、トラブルにより次々に脱落していったのです。レース開始から21時間以上経過して初めてトップに立ったマツダは、長いピットインにより追いつけなくなったメルセデスや、燃費の問題でペースが上がらないジャガーを尻目に快調に飛ばし続け、そのままトップでゴールします。
レースとしては無風で全く盛り上がらなかった今年のル・マンとは違い、このときは全てがドラマチックでした。当時は地上波でのTV中継はあったものの、部分的かつ時差中継であり、現地時間よりも1時間半ほど遅れて映像が届いていました。当時現地からの電話で優勝を知っていたマツダの役員達は、TV映像を見ながら何故か「このまま最後まで無事に走ってくれ」と祈るという変な心境だったと言います。
さて、大幅に前置きが長くなりましたが、このときの優勝車であるマツダ787Bのミニチュアモデルが付属した雑誌「ル・マン24時間レース カーコレクション 第2号」が今回取り上げる品です。
価格を考えれば出来も良い
雑誌とはいえ、記事はおまけのようなものですので、実物の写真をご覧いただいた方が良いでしょう。
こうやって見ると、ミニチュアモデルの箱に少しだけ印刷物が付いているというイメージですね。
こちらが主役のミニチュアモデルです。この55号車はアパレルメーカーのレナウンがスポンサーとしてついていて、車名も「レナウン・チャージマツダ」と呼ばれていました。この派手なカラーリングは、スポンサー契約が決まった当時マツダの戦績を知ったレナウンの役員が「どうせ優勝はできないだろうからできるだけ目立つように派手な車にしておけ」と指示した結果生まれたものだったそうで…。
ちなみにこのレナウン・チャージカラーは2種類あり、ル・マン優勝車の55号車を保存するために代わりにレース参戦用として追加製造された3台目の787Bがあるのですが、こちらの車は55号車とオレンジと緑の配色が正反対となっているのだそうです。
55号車を運転したのはフォルカー・ヴァイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーの3名。当時ハーバート、ガショーはF1に参戦していて、特にガショーはCカーに馴れていなかったため、本番直前にヴァイドラーが乗り方を教えて燃費をかなり改善させたそうです。
ゴール時に運転していたハーバートは、ひどい脱水症状を起こしていて表彰台に立てなかったというのは有名な話ですね。
なお、個人的にはヴァイドラーについては、この年よりも翌年のマツダ製(厳密には当時同じフォードグループだったジャガーXJR14をカスタマイズしてジャッド製3.5ℓV10を載せた)のレシプロ車、MX-R01でレース序盤にアグレッシブな走りでトップを奪った姿の方が強く印象に残っています。もっとも、彼はその直後に突発性難聴を悪化させドクターストップがかかり、レース人生を絶たれてしまうのですが…。
この車を見ていると、あの時代のレースは面白かったという思い出が蘇ってくるのです。ミニチュアモデルとしての出来も思ったよりは良く、マツダ787Bに思い入れのある方は持っておいて損はないといえます。私自身、ここで書いた内容の殆どはこのミニチュアモデルを見て思い出した内容をまとめたものですので…。
-
購入金額
2,490円
-
購入日
2018年10月16日
-
購入場所
すばる書店
フェレンギさん
2018/10/20
すでに2箇所にシケインが設置されていたユノディエールだったと覚えていますが
それでもストレート速度重視だったんですよね
独特の金属音と サイドから出る炎を なんとなく思い出します
今にして思えば、白と黄色のニコンカラーより このレナウンカラーが あの優勝を記憶に刻む
ということに寄与していたのかも そんなことを思います
jive9821さん
2018/10/20
文中にあるように、元々はネガティブな理由で作られたカラーリングではあったのですが、それが結果としてより強い印象を残すことになったように思います。
当時この55号車以外は白とライトブルーのマツダワークス標準色でした。ニコンカラーは確か737辺りまでだったと思いますので…。
787Bの翌年のMX-R01では、チャージカラーは1台(5号車)が受け継いで、もう1台は鹿島建設のロゴが入った白地の車(6号車)になっていました。こちらは低ダウンフォースで速度と車輌への負荷軽減を狙ったものの、1992年は雨の中のレースとなり、寺田陽次郎のドライブ中にコントロールを失ってクラッシュしてしまったと記憶しています。