戦中派の詩人、石原吉郎。
本書は『石原吉郎全集』第一巻(1979年)、第二巻(1980年)を底本にしている。
その作品は自身のシベリア拘留、ソ連における強制的な重労働をテーマにした作品が多い。
しかし悲劇的で抒情的な語り口というよりは、過酷を通り越して究極状態にある人間の根源的な部分。本性。それを随分とやわらかな仮名遣いで表現する詩人という印象を受けた。
彼のメモや日記を見ていると、実存に対する問いに近いものを見て取ることができる。そこにあるのは「私」「孤独」「死」「ことば」に対する問いだ。しかし、ウィトゲンシュタイン的に考えるならば、これらは本来語りえず、ただ沈黙でもってのみ示すことのできるものである。
だが、石原吉郎はそれらに詩でもってこたえようとする。本書の序文に「詩の定義」とあるが、その一部に以下のような記述がある。
…ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙をかたるためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。…
石原吉郎 『石原吉郎詩文集』(2017). p.10「詩の定義」
石原吉郎の詩は、言語が事実から脱落する。眼前に広がる事実がすべてであり、その時言語は不必要になる。この脱落する言語には一人称と二人称も含まれる。事実の前にあなたも私もなく、そこにいる人間として均一化される。人が事実に均される。その中で、彼は詩をもって再度自分というものを編み上げたように思える。
彼は語りえないことについて口を噤むのではなく、「ことば」であると同時に、日常のいわゆる「言語」からは大きく異なった意味を持つツール「詩」を使用することで、沈黙を守るのである。
他にも、彼は独我論的な側面についても非常にウィトゲンシュタインの思想と相性がいい気がする。
ここはそのうち比較して追記したい。
よい詩は下手な哲学書より多くを語ろうとする。よい詩はよい哲学書の結論だ。
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購入日
2017年10月27日
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