ボクらの夢を育んだビデオとその末裔たち

人はなぜ記録を残そうとするのか

 

人は事あるごとに、カメラやビデオを使って思い出を記録する。旅先で、家族や友人との集まりで、結婚式や誕生会などのセレモニーで。特に子供のいる家庭では、ビデオカメラを持っていない家などほとんどないだろう。胸に秘めた思い出も貴重だが、映像はそれに勝る雄弁さを持つ。また録画の存在は人々の生活を大きく変えた。テレビに張り付いていなくても予約をしておけば好きな時に観る事ができる。撮りためたビデオをゆっくりと見返すのは、何とも楽しいひとときだ。

 

映像や音声を記録する技術は、それほど長い歴史を持っているわけではない。フィルムを使った映像の記録や音声を記録する装置の原型は、いずれも19世紀後半から20世紀初頭にかけてようやく誕生したものだ。しかしその後、『記録に残す』技術は目覚ましく進歩していく。中でもドイツ人技術者フリッツ・フロイマーによって発明されたプラスチックテープを使った録音技術は、第2次世界大戦中、ナチスによってさらに研究が進められ、お得意のプロパガンダや実戦での戦闘にも応用された。戦後、そうした技術の遺産はアメリカが持ち帰り、1947年には3M社が現在とほぼ同じ仕様の磁気録音テープを発売する。1950年代に入ると東京通信工業(1958年にソニー株式会社へ社名変更)を始めとした日本企業も、磁気録音テープやレコーダーの開発に参入していく。

 

こうした磁気を用いた音声の記録・再生技術はテレビジョンの普及に伴い、映像の録画への応用が模索されていく。そして1956年、アメリカのアンペックス社が磁気録画方式を用いた実用的なビデオカセットレコーダー「Ampex VRX-1000」を、3M社がそれに使用するビデオテープを発売する。しかしこのレコーダー、当時の金額で5万ドル。とても一般家庭で使用するような代物ではなく、テレビ局や制作会社の間でしか使われなかった。1960年に入ると、ようやく日本のメーカーもVTR(ビデオテープレコーダ)の開発に本格的に参入。1963年にはソニーがオープンリール式VTR「PV-100」を発売。それまでのVTRに比べサイズを大幅に縮小、スチル機能も搭載させた。そしてその2年後には「CV-2000」を発売する。定価198000円、重さは15キロ。当時としては驚異的な安さで、近い将来の一般家庭への普及を予感させるものだった。

 

その後、国内外合わせてさまざまなメーカーがVTRの開発・販売に乗り出すが、当時は規格が統一されておらず、ビデオテープの幅、テープの設置方法などさまざまなタイプのVTRが世間に出まわっていた。互換性はほとんどなく、ユーザービリティに欠けていたため一般家庭への普及は滞っていた。そんな中、1969年にソニー、松下電器産業(現パナソニック)、日本ビクターなど8社は、世界初の家庭用カセット式VTRの統一規格であるU規格を作る。当時はオープンリール方式(テープが巻かれたむき出しのリールを設置するタイプ)が主流だったため注目を集めたが、カラーテレビがようやく一般家庭に普及した時代であったため、広く普及するにはやや時期尚早だったのかもしれない。


SONY SL-HF705(Q’sクラブさんのもちもの)

だが高度経済成長期を終えた1970年代中盤になると、一般の家庭にも経済的な余裕が生まれる。当時は国内でもU規格の他にVコードやVX方式などいくつかの規格が乱立している状態だったが、ソニーは再び家庭用VTRの普及を狙い各社に規格統一を呼びかけベータマックスを発売する。ベータマックスは1/2インチテープを使ったカセット収納型で、それまでのビデオカセットに比べサイズがひと回りコンパクトであった。この『ベータ』陣営に加わったのが東芝、三洋電機、NEC、ゼネラル、アイワ、パイオニア。画質の向上や、当時としては発売当時はまだ珍しかった特殊再生などの技術を惜しみなく注ぎ込んだVTRだった。

翌年の秋、日本ビクター(現・JVCケンウッド)は新たな規格『VHS』の1号機を発売。その特徴はビデオカセットのサイズがかさばる事を承知の上で基本録画時間120分と長く設定されていた。また量産化が容易な構造でもあった。『VHS』陣営にはシャープ、三菱電機、日立、船井電機の他、最終的には親会社でもあった松下電器産業も参加。こうしてVTRを舞台に、国内外の家電業界はまさに天下分け目の戦いを約10年にわたって繰り広げることとなった。

 


Panasonic NV-H100(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

『VHS』と『ベータ』の戦いの中で有名なエピソードは、当時ビクターの事業部長だった髙野鎮雄が松下電器産業の創業者で、当時相談役であった松下幸之助にVHS陣営に加わって貰うよう直訴した事であろう。松下幸之助は松下・ソニー・ビクターの幹部たちを集めた会議で、両社のデッキを見比べ、「VHSは部品点数も少ないので安く造れるので後発組にも有利」と判断。VHS方式への参加を決めた。当時の家電業界はメーカーが従えた量販店の力が大きく、松下の販売力はVHS陣営を有利に導いた。

松下幸之助が推察した通り、VHSはその後、廉価版を投入しシェアを拡大。また誕生当初より録画時間を120分としていたため、映画やプロ野球などを録画したいユーザーからの支持を集めた。そして最終的に勝負を決定づけたのは、ベータ・VHS双方のソフトを提供してきた映像ソフトメーカーがVHS中心のリリースへとシフトした事。そして1980年代前半頃から登場したビデオレンタル店がVHSをメインに扱った事であろう。

 

話はやや脱線するが、1970年から1980年代にはビデオ以外にもさまざまな磁気メディアが誕生している。1970年の8インチのものが開発されたのを皮切りに、5.25インチ、3.5インチと登場したフロッピーディスクは、ワープロや8ビット・16ビットパソコンでは随分とお世話になった方も多いだろう。1980年頃になるとハードディスクを内蔵したPCが登場し、その容量は年々拡大。現在は磁気メディアに変わりフラッシュメモリを使ったSSDが主流になりつつあるようだ


Logitec LFD-31UE(nnsuteさんのもちもの)

maxel FD2-256D(はるななさんのもちもの)

3M 5inch FD(はにゃさんのもちもの)

 

 

ポストVHSの行方

 

こうしてVHSはVTRの主役の座を勝ち取ることになった。ビデオカメラにおいてはVHSとベータ間での規格争いを反省し、1984年に世界のメーカー127社が集まり8ミリビデオを統一規格とした。以降、VHSは映像メディアの中心を担っていくのだが、徐々にデジタル化の波がその足元へと寄せてくる。その先兵が1981年に登場したレーザーディスクだ。ビデオデッキと違い、データの読み取り方式が非接触式のため記録媒体を劣化させず、また解像度においてもビデオに比べ高画質を誇ったのだが、再生専用であった事やソフトが高価であった事、何よりレンタルが全面禁止であった事から広く普及しなかった。ただ、劇場同様にワイドスクリーンで映画を楽しめたため、映画ファンの間では人気が高かった。ちなみに最後にリリースされたソフトは2006年の川中美幸「金沢の雨」。



PIONEER CLD-70(hiroさんのもちもの)

その後、ポストVTRとして1996年に登場するのがDVDプレイヤーだ。先行して発売されていた光ディスクの第2世代として早くから注目を集めていたが、CDの記憶容量が640~700MBであったのに対し、DVDは片面一層4.7GB、最大で17GBものデータを記憶させる事ができる点が大きなアドバンテージだった。発売されてしばらくは、レンタルビデオ店でも同じタイトルがビデオ版とDVD版で並べられていたが、2000年に発売されたDVDを再生できるゲーム機PS2のヒットをきっかけに、DVDが映像メディアの主流になっていく。こうした映像メディアのデジタル化の波はさまざまな部分に波及した。たとえばVHSで撮りためた膨大なデータをデジタル化するのに特化した商品が登場。またビデオカメラも8ミリからデジタルビデオカメラへと移り変わっていく。


I.O DATA GV-USB2/HQ(OPTさんのもちもの)

SONY HDR-HC1-B(kazさんのもちもの)

 

技術が進歩すると、扱わなくてはならないデータの容量は増えていく。取り扱えるデータが増えるとさらに技術は進歩していく。身の回りでそれを実感する機会はここ数年確実に増えてきている。パソコンのメモリ、デジカメの画素数の向上に伴うメモリーカードの容量の向上、データのやり取りをするファイル便やフラッシュメモリーも年々その容量が増してきている。映像の面でもハイビジョン放送がごく一般的になってきた。そうした情報量の多い高精細の映像も録画する事を想定し登場したのがソニーや松下電器産業などが規格を策定した「Blu-ray Disk」と東芝とNECが中心となって提唱した「HD DVD」だ。2002年に登場して以降、両陣営は激しく綱引きを展開したが、2008年に東芝が「HD DVD」事業からの撤退を宣言して次世代DVD争いは終結する。記憶容量の差、それに伴う魅力的な映像コンテンツが「Blu-ray Disk」へと流れた事が決め手であった。もしかすると、そこにはソニーがかつてVHSに敗れた際の教訓が生きていたのかもしれない。

 


SONY PlayStation3(skinheadさんのもちもの)

TOSHIBA REGZA SD-BD2(kensanさんのもちもの)

 

2010年あたりから3Dテレビがちらほらと話題に上ったりしているが、映像の進化はまだまだとどまる事を知らない。3Dブームはその昔にも何度かあったが、それをサポートする機器と技術が揃っている現在であれば、ブームは本物になるかもしれない。そうした未来を見据え、各メーカーではすでに第4世代の光ディスクが研究されている。テラバイト級の記憶容量を持つディスクが登場するのも、そう遠い話でもなさそうだ。

贅沢な一時間 ─芳醇な葉巻の世界─

全ては儚い一時間のために

「嗜好品」というものは、本当に手がかかる。こだわるほどに高価になり、管理が難しくなり、楽しむまでの手順も煩雑になる。だが、一度その魅力を知ってしまうと、その煩雑な手順までもが楽しくなってしまう。まったく、趣味人というのは一筋縄ではいかない人種である。

ワインなどと並べて語られる事もある葉巻も、手のかかる嗜好品だ。葉の種類、原産地、作成手順、保存方法、カットの種類、そして着火方法にいたるまで、様々な要因で味がガラリと変わってしまう。特に重要なのは保存だ。温度は15度から20度、湿度は68度から72度に保つのがベストといわれる。その奥深さを堪能するには「ヒュミドール」という専用の保管ケースが必要で、数週間から時には数年寝かせる事によって、その魅力的なフレーバーを楽しめるのだ。専用のケースで寝かせ、葉の香りを楽しみ、吸い口を好みの形にカットし、たっぷりと時間をかけて満遍なく着火…。これだけの手間を掛けても、紫煙をくゆらせる至福のひとときはたった1時間ほど。なんと「贅沢な一時間」だろう。この刹那の幸福に葉巻愛好家たちは惜しみなく時間を投資する。そのため、素晴らしい逸品を手に入れたはいいが、もったいなくて吸うに吸えない、というジレンマを抱えてしまう事もしばしばなのだが…。

男たちを惹きつけてやまないシガーの魅力

この「贅沢な一時間」に魅了された著名人は多い。有名原産地であるキューバの国家元首フィデル・カストロ、カストロの影響で葉巻を始めたといわれる伝説の革命家チェ・ゲバラ、シカゴマフィアの「ギャングスター」アル・カポネ、またマーロン・ブランドやチャールズ・チャップリン、フランク・シナトラ、マイケル・ジョーダンなど、世界的に有名な「男が憧れる男たち」に愛好家が多いのも葉巻の特徴だ。

 


H.Upman Naturals
(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

CIGAR COLLECTION(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

 

 


COHIBA(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

 

 

第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディも愛好家として有名だ。そしてこんなエピソードがある。ある日、彼は主席報道官を呼んでこう言った。「私は葉巻を大量に入手したいんだ。明日の朝までに」。報道官は「どのくらいですか?」と聞き返した。ケネディは答える。「H.Upmannを1000本ほどだ」。かくして翌日の朝、報道官が手を尽くして集めた1200本の葉巻を前にニッコリと笑ったケネディは、机の上にあったキューバとの交易禁止を決める書類にサインをした。大統領といえども、その葉巻の魅力に抗う術はなかったようだ。zigsowユーザーさんのもちものは、ケネディが愛したH.Upmannの中でもかなりレアな逸品。ケネディが見たならば、おそらく舌舐めずりした事だろう。

zigsowユーザーさんのもちものにある「Romeo Y Julieta」(ロメオ・イ・フリエタ、写真右)は、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルが愛した葉巻。第二次世界大戦中、極太の葉巻を手に国民を鼓舞する姿はあまりにも有名だが、そのパートナーであったのが「Romeo Y Julieta」だ。彼が好んだことから長さ178ミリ以上で直径18.65ミリ以上のものを「チャーチルサイズ」と呼ぶようになった。一方、zigsowユーザーさんのもちもの「COHIBA」はキューバのカストロが「最高の葉巻を作れ」と指示して生まれたブランドで、カストロ自身も愛飲した銘柄。このSigloⅠはコロンブスのキューバ発見500年を記念して作られたシリーズだ。コイーバは1968年創立とシガーメーカーにしては新しいが、すでに最高級シガーといえば必ず名前が上がるほどのブランドで、「ハバナシガーの王様」とも言われている。ちなみに、SIGROシリーズはⅠからⅥまであり、中でもSIGROⅥはハバナシガー最高峰と言われる葉巻ファン垂涎の逸品だ。

葉巻の発祥と現在

 

Davidoff(zigsowユーザーのみ閲覧可能)
さて、数々の男たちに愛され、時には著名人たちのトレードマークとして存在感を誇示してきた葉巻は、いったいいつ頃に作られたのだろうか。実は、まだはっきりと分かっていないのだが、古代マヤ文明の時代にはすでに存在していたという説が有力で、メキシコのパレンケ遺跡にある石柱には葉巻を吸う神の姿が刻まれているという。ヨーロッパが介入する以前のアメリカ先住民たちも広く喫煙の習慣を持っており、大航海時代の到来と共に全世界に広まっていった。

現在の形での販売は、1840年創立の「H.Upmann」や1845年創立の「Partagas」が老舗として有名。その後も1970年代まで次々と新ブランドが誕生し、現在は中南米を中心に数十社が生産を行っている。葉巻の一大生産地といえばキューバをまず思い浮かべるが、それ以外の国にも有力なブランドは多数存在する。たとえば元々キューバの企業だったのだが、キューバ葉巻の在り方に疑問を抱き、1990年に製造の全てをドミニカ共和国に移したブランドがzigsowユーザーさんのもちものの「Davidoff」だ。徹底した品質管理と専用の良質な農園を持つことでキューバブランドに負けない最高級の傑作を世に送り出し続けている。品質のブレの少なさやラッパー(最も外側の葉)の美しさも評価が高い。他にも、キューバに負けじと最高品質を求め続けるニカラグアのシガーブランド「PADRON」がある。特に創立40周年を記念して販売した「パドロン1926 40thアニバーサリー」はシガー専門誌で世界一の称号を得たほどの名品。キューバ産以外で唯一偽造品が存在する葉巻としても知られている。ちなみにお値段は、1箱40本入りで35万円也。

「葉巻を味わうことはひとつの出来事であり、くつろぎそして楽しみの期待のひとときでなければならない」(Davidoff創設者ジノ・ダビドフ)

至福の時を楽しむために…

TALISMAN(zigsowユーザーのみ閲覧可能)
CIGAR CUTTER(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

葉巻に対して「きつくて苦い」という印象を抱いている人もいるが、正しい楽しみ方をすれば決してそんな事はない。愛好家には釈迦に説法ではあるが、興味があっても試したことがない人のために、いま一度シガーの楽しみ方をおさらいしよう。
葉巻きはラッパーという葉で吸い口が閉じられているため、吸う時にはまずここに吸い口を作る必要がある。その際に特別な道具が必要になるのだが、吸い口の口当たりの良さを重視するならシガーパンチがオススメだ。慣れてくれば、zigsowユーザーさんのもちもののようなフラットカット(ギロチンのように吸い口をカットする)やナイフを使って楽しむのもいいだろう。ナイフをサッと取り出しスマートにカットする姿は男のダンディズムを感じさせる。さて、吸い口に穴を開けたら、火をつける。まずは葉巻全体を軽くあぶり、先端にゆっくりと回すように着火する。この時、タバコのように吸いながら火をつけるのは厳禁。手に持ったまま、ゆっくりと。火が付いたら、軽く優しく吸ってみる。もちろん、肺には入れずに口の中で味わい、煙を吐き出す。注意すべきは灰だ。タバコを吸う人は灰をこまめに落としがちだが、葉巻の灰は固いので3センチ程度まで放っておくべき。前述したイギリス首相チャーチルは、演説の時に灰が落ちないように針金を仕込み、聴衆に「いつ灰が落ちるのだろう」という緊張感を与えて自分への集中力を切らせなかったという逸話もある。それは極端な例だが、その灰が先端の温度を調節してくれるので、常にある程度の灰が付いているのがベストなのは間違いない。あとは、焦らずに1分間に1度くらい吸って煙を味わえば、忘我の時を味わえるのだ。

Humidor(zigsowユーザーのみ閲覧可能)
 

冒頭にも書いたが、葉巻きは適切な環境で寝かせる事によって、味わいがさらに熟成される。その奥深さを存分に味わうのであればヒュミドールに保管し、数ヵ月後、1年後、数年後と分けて味わうべきだろう。ヒュミドールはそれなりに値段も張るがzigsowユーザーさんのもちもののようなインテリアとしても見た目の良いものが揃っているので、ぜひとも購入しておきたい。ワインと同じく、葉巻も熟成されて味が大きく変わる。一般的に、最も味わい深いのは5年から7年寝かせてからと言われているほど。数ヶ月後、数年後に味がどう変化するのかを想像するのも、葉巻の大きな楽しみ方のひとつだ。

無論、吸いたくなれば、我慢する必要はない。もう一度、数本入りの葉巻を購入し1本だけ味わえば良いのだ。こうして、ヒュミドールの中で自分だけの葉巻が育っていく。数年後、より濃密に味わい深くなった葉巻を楽しみながら、その年月に想いを馳せてみよう。数年分の重みを持つ「贅沢な一時間」…。それこそが葉巻の真骨頂なのだ。

フライトジャケット
~普遍性という名のダンディズム~

その進化は空を舞う騎士たちのために

 

木枯らしが吹き始めると重宝する革ジャンやブルゾン。中でもA-2やMA-1はその中でも定番中の定番だ。保温性に優れ、どんなファッションにも合わせやすい事から愛用している人も多いだろう。これらが米軍で実際に使われていたジャンパー(もしくはレプリカ)という事はご存知の方も多いと思うが、フライト用のジャケットである事は意外と知られていない。

 

フライトジャケットの歴史は戦争に航空機が導入された第一次世界大戦に遡る。大戦直後、航空機の主な任務は偵察であった。当初は互いに攻撃手段を持っていなかったため、空の上で敵国の航空機と出会っても戦闘に入る事はなかった。だが、偵察の重要性への認識が高まると、互いに航空機による偵察の妨害が始まるようになる。当時の空中戦は一対一のいわゆるドッグファイトだったのだが、戦闘においては敵機よりも高い高度を得る事で戦闘を有利に運ぶ事が出来た。そのため、大戦初期は高度1000m程度を飛んでいた航空機は、大戦末期には高度2000~3000mで戦う事となる。一般的に高度が100m上がると気温は0.6℃下がると言われているが、当時のコックピットは吹きさらしであったため、体感温度は想像を絶する物であったろう。そのため、各国はパイロットを守るために防寒効果の高いフライトジャケットの準備を迫られた。

 


「A-2」(zigsowユーザーのみ観覧可能)

今では信じられない話だが、第一次世界大戦までのアメリカは航空機に関して後進国であった。戦力としての航空機を軽視していたのだが、第一次世界大戦の末期に参戦するとその力不足を痛感。以降、航空機の開発やパイロットの育成に巨額の予算を投じていく。その後、戦闘機のコックピットには風防が設けられるようになったが、航空機が航行する高度はますます上昇。寒さからパイロットや乗組員を守るためにフライト用ジャケットの研究が急務となった。そんな流れを受けて誕生したのが「A-2」だ。

 

「A-2」はアメリカ陸軍航空隊によって1931年に採用されたサマーフライングジャケット。1963年に公開された映画「大脱走」(1963年・米)で、スティーブ・マックイーン演じる陸軍航空隊のヒルツ大尉が着ていた事でも有名だ。フライトジャケットといえば「A-2」か、後に紹介する「G-1」「MA-1」を思い浮かべる人も多いだろう。初期の物はホースハイド(馬革)で作られており、袖口と裾周りには風の進入を防ぐリブが付いているのが特徴。肩のエポレットはコックピットからパイロットが自力で出られない際に引っ張り出すための物だ。1945年「L-2」の登場で一時は現役を退くが、1988年より再び採用され、現在はゴートスキン(ヤギ革)を使用している。中綿が入っていないため冬場は少々寒いが、春秋を過ごすにはちょうどいい。

 


「B-3」(zigsowユーザーのみ観覧可能)

「A-2」がサマーフライングジャケットであるのに対し、1934年にアメリカ陸軍航空隊に冬季・寒冷地気候用のフライトジャケットとして採用されたのが「B-3」だ。シープスキンをそのまま裏返しにしたワイルドなフォルムと抜群の保温性が特徴。厳しい寒さの中での任務もこなせるよう、襟と裾を革のベルトで締める事ができる。高度1万メートルにも及ぶ空の上で、作戦任務をこなす爆撃機の乗組員に利用されたことからボマージャケットとも呼ばれることもある。第二次世界大戦の末期には、航空機内の与圧技術(気圧の低下による機内の温度や酸素濃度の低下を防ぐ技術)が向上し、機敏な動作の妨げになる「B-3」はその任を解かれるのだった。

────ここで簡単にだが、アメリカ軍のフライトジャケットの形式記号について簡単に説明しておこう。「A」=主に夏季用、「B」=主に冬季・寒冷地用、「L」=夏季用、「N」=寒冷地用、「MA」=中間温度(-10~10℃)地帯用、「CWU」=航空用衣料全般を指す。また、同じ型番の物であっても世代によって若干仕様が異なる場合、型番ではなくミルスペック(アメリカ国防省によって制定される軍用品に関する規格)で呼ばれる場合もある。

さて第二次世界大戦後期になると、革不足によりフライトジャケットの素材も次第に変わり、コットン製の「B-10」など革以外のフライトジャケットも登場。中でも革新的だったのは1945年に採用された「A-2」の後継ジャケット「L-2」。素材には1935年に「デュポン社」が開発したナイロンを使用。「A-2」に比べ耐寒性は劣るが、非常に軽く機動性に優れていた。

 

「L-2」とほぼ同時期にコットンからナイロンへと素材を切り替えたフライトジャケット「B-15」が存在するが、その後継として1954年に登場するのがフライトジャケットの中では最も有名で、いまやブルゾンの代名詞的存在でもある「MA-1」だ。ボディはナイロン製、手袋を付けたままでも開閉できる大型のフロントジッパー、ニット製のリブ襟を採用。ミルスペックMIL-J-8279からMIL-J-8279Fまで7度の改良が施され、20年以上に渡り多くのパイロットたちに愛用された。ベトナム戦争中には、緊急時に味方の救助を待つ際の目印にできるよう鮮やかなオレンジ色の裏地を採用。ミルスペックMIL-J-8279DとMIL-J-8279Eがこれにあたる。

 


「L2-A TEST SAMPLE」(zigsowユーザーのみ観覧可能)

「MA-1」(ZRTさんのもちもの)

 

フライトジャケットブームの火付け役

 

かつて日本でもそうであったが、陸軍と海軍というものはそれぞれに独自の伝統を持ち、少なからずライバル心めいたものを持つものらしい。話は1930年代まで遡り、アメリカ陸軍航空隊が「A-2」を採用したのとほぼ同じ頃、アメリカ海軍航空隊は独自に開発したジャケット「M-422A」を採用する。「A-2」のホースハイドに対し、ボディにはゴートスキンを用い、襟にはビーバーラムを施した。革製だが肩から脇の下にかけてアクションプリーツが設けられ、腕もスムーズに動かす事ができる。その後も何度か改良が重ねられ、第二次世界大戦が終わり1950年代に入ると現在の「G-1」という型式を与えられる。

「G-1」(ZRTさんのもちもの)

 

誕生から現在に至るまで70年以上に渡り海軍で採用されているように、「G-1」は非常に完成度の高いジャケットであったが、その名を一躍有名にしたのは1986年の映画「トップガン」だろう。トム・クルーズ演じる主人公のマーヴェリックが「G-1」を着ながらカワサキの「GPZ900R」を走らせる姿に日本中の若者が憧れ、「G-1」はもちろん作中に登場する他のミリタリーファッションや「GPZ900R」も人気を集めた。

 

「WEP MIL-18342B」(ルサールさんのもちもの)

 

 

軍服でありながら洗練されたフォルムと高い機能性で人気のフライトジャケット。他の服とのコーディネート、バイクに乗る際や防寒着としてなどさまざまなシーンで重宝するが、実は他にも楽しみ方がある。アメリカ陸軍や空軍には厳しい規定があるのだが、海軍では部隊章や配属艦、参加した演習や着艦回数などを示すパッチをジャケットに自由に貼る事が許されており(それを着て搭乗する訳にはいかないが)パイロットたちはそれぞれ自分のジャケットをコーディネートしているのだ。ルサールさんのもちもの「WEP MIL-18342B」はアメリカ海軍が開発したウインターフライングスーツ。「VF-154」や「F-8」など部隊や艦載戦闘機のパッチが貼られている。オリジナルの経歴を考えながら好みのパッチでジャケットを飾ってみるのも楽しい。

 

代表的なフライトジャケットをいくつか紹介してきたが、フライトジャケットにはオリジナル(兵士たちに正規に支給されている物)とレプリカがある。現役のオリジナルは入手が非常に困難で、また中古品も保存状態の良い物は非常に高値で取引されている。現在、新品で店頭に並んでいる品のほとんどは、軍が正規に採用したフライトジャケットをモデルに、素材からあしらいまでを精巧に再現したレプリカなのだ。同じ型式の物でもさまざまなメーカーがレプリカを製作しており価格帯もさまざま。ストリートファッション向けにアレンジした物からオリジナルと同等(中にはそれ以上!)の品質の物までとレパートリーも豊富。寒さが厳しくなってくるこれからのシーズン、皆さんも気に入ったジャケットを1着見繕ってみてはいかがだろうか?

月に降り立った時計

 

『質実剛健』…そんな言葉が似合うヤツ

ひと昔前まで、腕時計は何をするにしても必要なパートナーだった。仕事や待ち合わせの際に時計が止まり四苦八苦した、なんて経験は皆さんにもあるだろう。だが、携帯電話にPC、タブレットなどその役割を担う携行品が増え、わざわざ腕に時計を巻かなくとも『時刻』がそこら中に溢れる時代になった。ここ十数年の間で、時計に求められる役割はインテリアやオシャレ、コレクションの対象へとすっかりシフトしてしまった感がある。

 

そんな世の流れにあらがうかのように性能にこだわり、優れた機械式時計を世に送り出し続けているのがスイスの時計メーカー「オメガ」だ。「デ・ヴィル」や「コンステレーション」のような高級腕時計の名に恥じないラグジュアリーラインも用意しているが、「オメガ」といえば「スピードマスター」や「シーマスター」のような技術の粋を集めた格調高い──ややもすると無骨な──フォルムの時計たちを真っ先に思い浮かべるのである。

 

「オメガ」製品の多くは機械式時計だ。機械式時計とは動力にゼンマイを用い、開放されたゼンマイの力で複雑な歯車を動かし正確に時を刻む時計のこと。ケースから出たリューズを回して動力をためる手巻き式と、着用者が動くたびに時計内部に仕掛けられた回転錘(ローター)が回り動力をためる自動式(オートマチック)の二つのタイプがある。その仕組みの原型は中世末期の欧州に誕生し、数々の職人たちの手により磨き上げられてきた伝統の技術だ。機械式時計に高価な物が多いのは、この職人たちの技術の粋が集められている事に他ならない。1960年代までは時計と言えば機械式時計を指し、中でも最新の技術を盛り込んだ「オメガ」の時計は正確さや堅牢さにおいて群を抜いていたが、1970年代に入ると大量生産に向いたクオーツ式(動力源は電池で電子回路を用いた時計)が主流となり、機械式は一部の愛好家たちの物になってしまった。「高価なこと」「手入れに手間が掛かること」など、クオーツ式時計に主役の座を奪われた理由はいくつかある。しかし複雑ながら無駄の無い、数々の仕掛けが詰まった“機械の塊”には、古くからのファンだけではなくデジタル世代をも魅了する不思議な魅力がある。事実、21世紀に入り、機械式時計の良さは多くの人々の間で見直されつつある。実はそのキッカケも少なからず「オメガ」の功績にあるのだ。まずは機械式時計の雄「オメガ」の魅力について見ていこう。

 

人類の冒険と共に歩んだ歴史

「オメガ」の祖であるルイ・ブランが懐中時計の組み立て工房を開いたのは1848年。メーカー名として「オメガ」を名乗り始めるのは、キャリバー(時計内部のムーブメントの型式)「オメガ」を制作した1894年からだ。以降、多くの名作と呼ばれる自社設計のムーブメントを輩出していく。1932年にはロサンゼルス・オリンピックの公式計時を担当(現在まで23大会の計時を担当しており、これは時計メーカーとして最多)、1930年代にはウォータープルーフ時計「マリーン」を発売。その精密さゆえに女性パイロットとして有名なアメリア・イアハートを始め、多くのパイロットたちが空の冒険の友に「オメガ」を選んだ。

「シーマスターダイバー」(やくりさんのもちもの)
 

「オメガ」の技術力は各国の軍隊からも高く評価され、第2次世界大戦中はイギリス軍からの要請に応え高性能の防水時計を供給する。戦後改良を加え、1948年に発売するのが「シーマスター」だ。「シーマスター」はイギリスやフランスなど多くの国の海軍にも制式採用されたほか、多くの海洋冒険家や海底探査のプロジェクトに携わってきた。中でも有名なエピソードは1976年、フランス人ダイバー、ジャック・マイヨールがエルバ島沖で水深101メートルというフリーダイビングの世界記録を樹立した際に、パートナーとして同行した事だろう。

 

やりくりさんみっちゃんさんの「シーマスター」は型番こそ違うが300メートル防水の自動巻き。裏蓋とリューズにはスクリュー方式を採用し水の浸入をシャットアウト。10時の位置に付いているヘリウムエスケープバルブで時計内部の圧力調整して水圧からボディを守る。また風防には光の反射を抑えるサファイアクリスタルグラスを採用、文字盤と針には蛍光塗料が塗られているため、ほの暗い水中でも時間を読む事ができる。ちなみに文字盤を囲むベゼル部分は反時計回りにしか回らない。これはベゼルを使って酸素ボンベの残量を計算する際に、ベゼルがズレても致命的な事故を起こさないための配慮だ。

 

「シーマスター」の活躍でその性能の良さは広く認められていたが、「オメガ」の名を決定的に高めたのは1957年に誕生した「スピードマスター」だ。1961年、時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは「10年以内に月面に人類を送り、無事帰還させる」と一般教書演説で宣言し、それを受けてNASAは来るべき宇宙計画の準備に着手。その流れで想定される様々な悪条件に耐える正確な時計の選定に入るのだが、その基準は多岐に渡る厳しいものだった。無重力と磁場、激しい衝撃や振動、極寒、高温、真空…さまざまなメーカーの時計がテストにかけられたが、当時、それら厳しいハードルをすべてクリアした時計は唯一この「スピードマスター」だけであった。1965年3月、こうして「スピードマスター」はNASAの公式クロノグラフとなり、1966年からは「スピードマスター・プロフェッショナル」と改名される。

「スピードマスター・プロ」(zigsowユーザのみ観覧可能)
 

 

運命の瞬間がやってきたのは1969年7月20日02時05分。アポロ11号が月面に到着し、乗組員たちが「スピードマスター」を腕にまいて月面に立った瞬間「スピードマスター」は初めて月に降り立った時計“ムーンウォッチ”の称号を手にした。その後も「スピードマスター」は様々な宇宙計画に携わり、映画でも話題を集めたアポロ13の事故の際もその正確さで宇宙飛行士たちの命を救っている。今日、アメリカの宇宙開発はペースダウンを余儀なくされているが、ロシアの有人宇宙事業では今なお「スピードマスター」が宇宙飛行士たちの標準装備となっている。

まあぼうさんのもちもの

「スピードマスター プロフェッショナル ムーンフェイズ ホワイト」(まあぼうさんのもちもの)
 

機械式の人気復活のきっかけになったコーアクシャル

冒頭の方で機械式時計の人気復活に「オメガ」が寄与したと書いたが、その一つがコーアクシャル・エスケープメントの導入だ。この技術はイギリスの独立時計師ジョージ・ダニエルによって1974年に発明された。簡単に説明すると、機械式時計はゼンマイの巻き戻る力を利用して歯車を回転させて秒針や分針を回すのだが、そのスピードを調整するのにガンギ車と脱進機、そしてヒゲゼンマイを利用したテンプという機構が必要だった。このガンギ車と脱進機は1分間に数百回と頻繁に接触するため、正確な時を刻ませるためには摩擦部分へのこまめな注油が必要となり、定期的なオーバーホールが要求される点が機械式時計の欠点であった。彼が生み出したコーアクシャル・エスケープメントはそれまでのガンギ車と脱進機、テンプのこれまでの仕組みをガラリと変え、メンテナンスが必要となる期間を飛躍的に延ばす画期的なものだった。反面、量産が難しかったため、長らく市販の時計には採用されなかったのだが、「オメガ」は1999年に発売した「デ・ヴィル・コーアクシャル」にこの機構を取り入れる。以降、「シーマスター」や「スピードマスター」などにもコーアクシャル・エスケープメントを取り入れたモデルが登場。メンテナンス時期を大幅に延ばした事で、機械式時計の再評価に大きく貢献した。

みっちゃんさんのもちもの

「シーマスター コーアクシャル クロノメーター ブルー」(みっちゃんさんのもちもの)
 

 

「オメガ」の名を高めてきたのは積み重ねてきた技術とチャレンジスピリットに他ならないが、デザインにおいても他の高級時計と肩を並べる。特に星座を意味する「コンステレーション」シリーズの優雅で気品に満ちたフォルムは、スポーツウォッチとしての「オメガ」を忘れさせる美しさでファンも多い。クロノメーターとは高精度の航海時計のことだが、「コンステレーション」はCOSC(スイス クロノメーター検定協会)のクロノメーター検定をクリアした最高精度のムーブメントを内臓している。もともと、このクロノメーター検定は1970年代以前は各地の天文台によって行われていた。GPSなども無い時代、外海を航海する船舶は正確な時刻と星座の位置によって自らの位置を把握していたのだが、クロノメーターとしての精度を認定するのにおいて天文台は打ってつけの機関だった訳だ。裏蓋に描かれた天文台と八つの星は、その厳しい審査をクリアしてきた証しなのだ。Level4さんのもちものは、11個のダイヤをあしらったラグジュアリーなモデル。現在は生産されていない。

「コンステレーション」(Level4さんのもちもの)

 

ここまで紹介してきた3つのラインの他に、いち早くコーアクシャル機構を取りれた「デ・ヴィル」というラインもあるが、「オメガ」の魅力を語る上で忘れてはならないのはさまざまな限定モデルの存在だろう。「オメガ」はオリンピックや宇宙開発に関わる記念モデルや変わったところでは裏蓋にメーテルが描かれた「銀河鉄道999」モデルなど、アニメや人物とコラボした物が数多くある。aimaruoさんのもちもの「オメガ・パイロット」も航空計算尺が付いた希少な限定モデルだ。また、ルサールさんのもちものである「スピードマスター・プロフェッショナル X-33」はNASAと共同開発したクオーツ式の宇宙時計。チタンボディは耐久性に優れ、1000日までのミッションタイムの設定やクロノグラフなど様々な機能が搭載されている。ちなみに映画「マイノリティリポート」の中でトム・クルーズもこれを着用していた。


aimaruoさんのもちもの
「パイロット」(aimaruoさんのもちもの) 

 

機械式時計「オメガ」のゆくえ

ここまで「オメガ」の魅力的な商品を紹介してきた訳だが、こうした機械式時計の強みは文明の中で生活している限り、なかなか実感する機会はない。だが大地震のような天災や遭難などのアクシデントでライフラインから隔絶されたとき、我々はその良さを思い知ることになるだろう。さて、人類が新たな世界を切り開くとき、常に傍らにいた「オメガ」だが、その進歩はまだまだ終わらない。2012年に完成が予定されている国際宇宙ステーション、そして2030年の火星への有人飛行を見据え、今も新型「スピードマスター」の開発に取り組んでいると聞く。彼らが赴く先に果たしてどんなフロンティアが広がっているのか?
「オメガ」ファンならずとも注目せずにはいられないところだ。

心にコンバースをはいて

誰もが一度は履いたスニーカー

おだやかな陽が差し込む秋の昼下がり。下駄箱の中に眠っていたスニーカーのほこりを払い、近くの公園へ足を運ぶ。はにかむように色づいた木々の中をひとり散策していると、何だかちょっぴりお洒落で行動的な人間になった気がしてくる…「コンバース」。いまやファッションを語る上で欠かせないアイテムとなったスニーカー、コンバースはその定番中の定番と言ってもいい。誕生以来100年余年、数々のプロスポーツ選手やミュージシャン、映画スターたちに愛されてきた歴史を今回は振り返ってみたい。

バスケットと共に歩んだ歴史

「コンバース」の歴史は1908年に始まる。創業者マーキス・ミルズ・コンバースは、森や湿地帯が多く冬は深い雪に覆われるアメリカ・マサチューセッツ州の気候や地理に着目し、モールデンの街に会社を興す。「コンバース・ラバー・シュー・カンパニー」。その名の通り、ラバーシューズを製造する企業であった。「湿地や雪の中でも作業ができるゴム靴は需要がある」という彼のもくろみは当たり、製品の質の良さも手伝って「コンバース・ラバー・シュー・カンパニー」は急成長を遂げる。しかし、商品の売れ行きは冬場に集中するため、マーキス・ミルズ・コンバースは通年販売できる商品の必要性を感じていた。そこで彼が次に目を付けたのが、同じマサチューセッツ州で生まれたスポーツ、バスケットボールであった。

現在、世界の競技人口が4億5000万人とも言われるバスケットボールだがその歴史は比較的新しい。考案したのは、マサチューセッツ州スプリングフィールドにあるYMCA(キリスト教青年会)の訓練校で教鞭と執っていたジェームズ・ネイスミスという一人のカナダ人講師。マサチューセッツ州をはじめとするニューイングランド地方は冬になると雪に閉ざされ、屋外でのスポーツが困難だった。彼は室内でハードに行える球技を模索し、ついには新たなスポーツを考え出す。それがバスケットボールだった。1892年1月20日には、初の公式試合が行われる。当初は体育館の2階席に大きな籠を下げ、ボールにはサッカーボールが使用。当時はプレイヤーの人数に制約はなかったよう。こうして生まれたバスケットボールはすぐに人気を集め、YMCAを通じて瞬く間にアメリカ全土へと広がった。ちなみにバスケットボールが日本に伝わったのは1908年、YMCAの訓練校を卒業した体育教師・大森兵蔵によってである。

さて「コンバース」に話を戻そう。マーキス・ミルズ・コンバースは、まだ生まれて間もないスポーツであるバスケットボールに事業の活路を見出し、さまざまな試行錯誤の末1917年にバスケット用のシューズ「キャンバス・オールスター」を開発する。素材には船の帆や絵を描く際に用いられるキャンバス(帆布)地を使用。板チョコを思わせる独特のデザインを施した靴底『オールスター・トラクションソール』や足首を保護するハイカットのデザインなど、現在の物と機能もフォルムもほぼ変わらぬ、当時としては斬新なバスケットシューズであった。この当時はまだハイカットモデルだけで、ロー(OX)カットは作られていない。

「CONVERSE ALL STAR CLEAN OX GRAY」(zigsowユーザのみ観覧可能)

「CONVERSE ALL STAR HI」 (zigsowユーザのみ観覧可能)

 

「キャンバス・オールスター」を語る上で忘れてはならないのは、当時のバスケットボールのスタープレイヤー、チャック・テイラー(=チャールズ・H・テイラー)の存在。彼は「キャンバス・オールスター」が誕生した翌年にプロバスケットボール選手としてデビュー。リーグで活躍している間「キャンバス・オールスター」の品質にほれ込み、現役時代を通して愛用した。引退後は、全米の高校や大学を回ってバスケットボールの普及に努める傍ら「キャンバス・オールスター」の素晴らしさを未来のスタープレイヤーを目指す子供たちに広め、シューズの改良についてもさまざまなアドバイスを与えた。その功績を讃えて、1946年からはアンクルパッチ(ハイカットモデルのくるぶし側に付いている円形のパッチ)にその名が刻まれる事になる。ちなみに70年代の物にはヒールパッチにも「チャック・テイラー」の名が入っていた。「オールスター」が別名「チャック・テイラー」と呼ばれるのはこのためで、現在ビンテージとして人気を集めているアイテムの一つでもある。

創業者マーキス・ミルズ・コンバースは1930年に亡くなるが、「コンバース」は1922年からバスケットボールのイヤーブック(ファン向けに全米大学リーグのスコアなどをまとめた物)を発行するなど、バスケット界との関係を深めながら共に発展していく。さらに1940年にはテニスシューズ「スキッドグリップ」を発売。1957年にはローカットバージョンである「キャンバス・オールスターOX」もリリースする。これをきっかけに「コンバース」のシューズはスポーツの分野をはじめ、ファッションアイテムとしても広く支持されていく。1960年代半ばにはNBA選手の9割が「オールスター」を愛用、また「スキッドグリップ」もテニスを楽しむセレブの間で人気を博すなど、「コンバース」の名は一つのステイタスシンボルとして定着していった。

困難の中で手にしたもう一つのブランド

しかし、1968年頃からバスケットシューズのハイテク化が始まり、ライバル各社はレザー製で機能的にも優れたバスケットシューズを続々と発表。「コンバース」もやや出遅れたがハイテクシューズの発売に乗り出し、1969年には星マークと2本のラインがトレードマークの「ジャックスター」を発売し対抗するが、シェアの縮小を余儀なくされる。その後、業績の悪化もあり「コンバース」は1972年に「エルトラコーポレーション」に買収されることとなる。だが、この買収劇は「コンバース」にとって決してマイナスではなかった。「エルトラコーポレーション」は当時、すでに人気を集めていたスニーカー「ジャック・パーセル」を擁するBFグッドリッチを買収し、コンバースのシューズ部門へと統合したのだ。これによりコンバースは大きなブランドを手に入れる事となったのだ。




「ジャックパーセル デニム」(zigsowユーザのみ観覧可能)

 

「ジャックパーセル ストローハット」(zigsowユーザのみ観覧可能)

 

「ジャック・パーセル」の登場は「スポルディング社」より発売された1935年まで遡る。開発には当時のバドミントンのワールドチャンピオンだったバドミントン兼テニスプレイヤーのジャック・パーセルが参加。快適さはもちろん、テニスやバドミントンなど激しい動きが要求されるスポーツに対応するパフォーマンス性や耐久性が認められ、発売当時からプロ選手たちの間でも人気を博した。50年代に入るとその販売権は「BFグットリッチ」へと移り、さらには「エルトラコーポレーション」を経て「コンバース」の定番ブランドとなる。シンプルなフォルムとヒゲを連想させるデザインのヒールラベルが特徴。また、トゥ部分のラインが微笑んでいるように見える事から『スマイル』とも呼ばれている。

「コンバース」が「ジャック・パーセル」を傘下に加えた直後の1970年代から1980年代、スニーカーは若者たちの代名詞としてアメリカはもとより世界中で大流行する。シネマの中では「ロッキー」のシルベスター・スタローンや「卒業」のダスティン・ホフマンが「オールスター」を履きこなし、日本のポピュラーミュージックでは「虹とスニーカーの頃」(‘79年、チューリップ16枚目のシングルで売り上げ40万枚)や「スニーカーぶる~す」(近藤真彦のデビュー曲でミリオンセールスを記録、オリコン初登場1位、‘80年同名映画主題歌)、「心にスニーカーをはいて」(‘82年全日空北海道キャンペーンソング、白鳥座2枚目のシングル)など楽曲の題材に使われるなど、若さや青春の象徴にもなった。

1970年代以降バスケットシューズ界は各メーカーの台頭により、すでに「コンバース」の独壇場ではなかったが、追随する各社に負けじと素材や機能にこだわったシューズを次々と世に送り出していく。1974年にアッパーにスムースレザーとスエードを使った「ワンスター」、1976年にはスラムダンク・アーティストと呼ばれた伝説のバスケットプレイヤー、ジュリアス・アービングも愛用した「プロレザー」をリリース。1984年のロサンゼルス・オリンピックには「スターテック」、そして1986年にはスター選手であるラリー・バードとマジック・ジョンソンというライバル同士を広告塔に起用したヒット作「ウェポン」を生み出した。その中で、「ワンスター」は質の良さが定評だったが生産時期がわずか2年と短かったこともあり、愛好家たちの間では「幻のワンスター」とも呼ばれている。現在は復刻版が生産されているが生産数は少ない。zigsowユーザーのもちものである「ワンスター」はその中でも希少なベルトクローズタイプだ。

「ワンスター V3 OX」(zigsowユーザのみ観覧可能)

 

「コンバース」はハイテクスニーカーと「オールスター」や「ジャック・パーセル」などのいわゆるクラシックなスニーカーの2本柱で歩んでいくが、2001年に経営が行き詰まり倒産。日本の商社が資本参加し再建するも2003年にはライバルであったNIKEによって買収されてしまう。日本では2002年に「コンバースジャパン」が設立され、現在国内では日本製コンバースが主に流通している。だが両社とも「コンバース」というブランドに敬意を払い、創業以来の製品の良さを守りながら商品を展開している。

「AS REPAIR-BLOCK HI」(zigsowユーザのみ観覧可能)

 

2008年、誕生100周年を迎えた「コンバース」は記念アイテムを100種類発表。「コンバース」の歴史を語る上で欠かせない名作たちをベースに、さまざまなカタチに味付けされた作品がリリースされた。上で紹介している、めがねハンターさんのもちもの「リペアブロック HIホワイト/レッド」は、1992年に発売された「バーシティカラーブロック」をモチーフにしたアップデートモデル。アッパー部分に異なる質感の素材を使っているのがユニークだ。

バスケットボールシューズの原点「オールスター」、テニスやバドミントンなどのプレーヤーに愛された「ジャック・パーセル」というスニーカーの歴史に名を残す名シューズを生み出してきた「コンバース」は、毎年カラーやデザインに趣向を凝らしレパートリーを増やし続け、今やストリートファッションの重要なキーアイテムとなった。1917年から現在に至るまでの世界累計販売数は「オールスター」だけでも8億足を超えているという。どんな服装にもコーディネートでき、使い込めば味が出る。「コンバース」の魅力は、未来永劫に我々を魅了し続けるのだ。

やがて哀しき2ストローク
~サーキットの上のYH戦争~

消えた2ストロークバイク

2ストバイクが最も華々しく活躍したのは80年代~90年代。ロードレース世界選手権での日本製バイクの活躍と相まって、ワークスチーム(各メーカーが自己資金で結成するチーム)がレースで使用する技術をフィードバックした、レーサーレプリカと呼ばれるバイクを中心にブームを呼んだ。チャンバーがたたき出す高音域の排気音、刺激的なオイルの香り、独特の加速感と人馬一体と言う言葉がピッタリの乗り心地……。当時、2ストバイクは単車乗りたちの心をしっかりと掴んで離さなかった。

 

2ストロークバイクのエンジンの仕組みは簡単に言うとこうだ。現在、一般的な4ストローク・エンジンがピストンが2往復する間に「吸気」→「圧縮」→「爆発」→「排気」という4行程を行うのに対し、2ストローク・エンジンは1往復で「吸気と圧縮」→「爆発と排気」の4行程をこなす。つまり4ストは2ストの2倍回らなければ同じパワーを得られない事になる。おまけにエンジン自体が軽量。当時は速さを追求するのに理想のエンジンとも言われたのだが、1998年10月に実施された自動車排出ガス規制によって、各メーカーとも2ストバイクの生産・販売を終了してしまう。今回はその波乱に満ちた物語を辿ってみる事にしよう。

 

少年の心を掴んだレーサーレプリカたち

70年代から花開く2ストバイク文化を語る前に、1979年頃から1983年頃にかけて繰り広げられたホンダとヤマハによる「YH戦争」について軽く触れておこう。両社の関係はヤマハがバイク業界に参入する以前から続いていた。第2次世界大戦中、ヤマハ(当時の日本楽器製造)は戦闘機用プロペラを製造する事を軍から命じられるのだが、金属加工のノウハウがなく生産性が一向に上がらなかった。そこでヤマハの社長であった川上嘉市氏は、当時、同じ浜松市に本拠を置いていた東海精機重工業(現東海精機)の社長、本田宗一郎氏を頼る。彼はカッター式自動切削機を作りヤマハに提供。それにより工場の生産性が著しく向上する。その後も川上氏は本田氏を頼りにし、ヤマハがバイク業界に参入する際にも深く関わるなど、1950年代から1970年代中盤までの両社の関係は、まさに蜜月と言ってもよい良好な関係であった。少なくとも、周りからはそう見られていた。

1950年代、100社以上にも及ぶメーカーがしのぎを削った国内の自動ニ輪業界も、1970年代には淘汰が進みホンダ・ヤマハ・スズキ・カワサキの4大メーカーが市場を占めることになる。国内シェアは1位がホンダ、2位がヤマハ。だが1979年頃、両社のシェアは限りなく肉薄していた。当時のヤマハ社長・小池久雄氏は『ホンダが自動車に軸足を移している今ならば、オートバイ業界の盟主の座を狙える』と好機を見い出した。そして強気な生産計画と販売体制を敷いてホンダを猛追。一時はシェアNo.1の座に手が届くかに見えたが、当初のヤマハの楽観的な予想に反し、ホンダ側も業界盟主の矜持にかけてこれに応戦。争いは激しさを増し、やがて「スクーター3台セットで10万円」や「新車購入に自動ニ輪を1台付ける」などと、不毛なダンピング合戦へと発展していく。この争いは結果的に1983年にヤマハが白旗を揚げる事で終結するのだが、これに端を発した両社の争いはサーキットに舞台を移してさらに熾烈を極めた。これがレーサーレプリカのブームに大きく結びついてくる。

ヤマハはホンダとの前述の争いのさなかにあった1980年8月に「RZ250」をリリースする。1970年代、ロードレース世界選手権で無類の強さを誇ったヤマハはクローズドサーキットマシンの「TD-2」や「TZ」など、数多くの2ストロークのロードレーサーを送り出してきた。「RZ250」は当時の市販レーサー「TZ」のボアとストロークが同じということからレプリカモデルとも言われた一台。水冷2ストローク並列2気筒、35馬力。当時は400ccが人気を集めていたのだが、400cc並みの性能を持ち、車検もない250cc2ストロークマシンがこれ以降、俄然注目を集めていく事となる。くすくすさんのもっていたもの「RZ250R」は排気デバイス「YPVS」を搭載した2代目のモデルだ。また翌年発売された「RZ250」の兄弟、「RZ350(アールゼット サンパン)」も歴史に名を残す名車と言えよう。当初は輸出向けに生産されたのだが、160km/hから180km/hにスケールアップしたスピードメーター、強化されたブレーキやキャブレター、45馬力を叩き出すパワフルなエンジンなど、当時の750ccバイクと遜色の無い性能は走り屋たちからは“ナナハンキラー”と賞賛された。ただ国内においては、車検の問題から商業的に成功したとは言いがたかった。



「VT250F」 (zigsowユーザのみ観覧可能)

1970年から1980年代まで、ヤマハ・カワサキ・スズキは2ストロークを中心にレースに参戦し活躍してきたが、1970年代後半にレースへの参戦を再開したホンダは4ストロークで勝つ事にこだわった。これはレースだけでなく市販車へも広がり、ホンダはこちらのzigsowユーザのもちもの(zigsowユーザのみ観覧可能)にもある4ストロークマシン「VT250F」を1982年に発売。搭載された水冷4ストロークV型2気筒DOHCエンジンは同クラスの2ストローク並みの出力を誇りおおいにヒットするのだが、「RZ250」の登場によるレーサーレプリカブームの影にやや霞んでしまった感がある。

レースでの勝利が、そのまま市販車の人気につながった時代。ロードレース復帰当初は4ストロークをメインにしたホンダだったが、すぐにその限界に気付き、新たな技術を盛り込んだ2ストロークバイクの開発に着手している。こちらのzigsowユーザのもっていたものでもある1983年に発表した「MVX250F」だ(zigsowユーザのみ観覧可能)。最大の特徴は水冷2ストV型3気筒というユニークなエンジン。バランサーを用いず、前バンクの2気筒と後バンクに1気筒を回す事で4気筒並みのバランスと、40馬力という当時の250ccの中ではトップのパワーを叩き出した。しかし鳴り物入りでのデビューに反して、初期ロットでエンジンの焼き付きが多発。すぐに改善策が施されたが、今度は排気孔からオイルを多量に噴き出すなどの欠点が露呈。他社のバイクに馬力の面でも抜かれてしまったため、わずか1年で「MVX250F」は檜舞台から姿を消す。

その後を継いだのが1984年に発売された「NS250R」。ワークスマシンと同じ名を冠を冠したマシンだけあり、その性能にはホンダの意地が込められていた。アルミで造られたNSシリンダーやアンチダイブ機構、最適な排気脈動でトルクの増大を可能にする自動調整トルク増幅排気機構など、『技術のホンダ』のテクノロジーが惜しみなく投入された。そして上り調子であったワークスマシンをイメージさせるフルカウルは、「MVX250F」で2ストファンに抱かせた不安を拭い去るに十分なフォルムだった。

 

ヤマハとホンダがしのぎを削っていた頃、他の2スト陣営もただ手をこまねいていた訳ではない。中でも「RZ250」追撃の一番手だったのは、45馬力水冷2ストロークエンジンと市販車初のアルミ角パイプ製フレームを引っさげ、1983年に登場したスズキの「RG250γ(ガンマ)」だろう。低速でのトルクの弱さを忘れさせるほどインパクトのある高回転域での素晴らしい加速は何とも玄人好みな仕様。これまでになかったレーシングマシンそのままの姿と相まって、「RZ250」から主役を奪うに十分な要素を兼ね備えていた。写真のまっくさんのガンマは、1988年にフルモデルチェンジされて「RGV250γ(ガンマ)」と車名が変わった6代目にあたるモデルだ。


まっくさん
「RGV250γ(ガンマ)」(まっくさんのもちもの)

こうしたレーサーレプリカブームとライバルたちの追撃を受け、ヤマハは1985年に「RZ250」の後継モデル「TZR250」を発表する。アルミ合金製のフレーム・スイングアームの高剛性とレーサーらしいフルカウル、パワーバンドが広く高回転時の躍動感がずば抜けた45馬力のエンジン、コーナーをサラリと抜ける素直な回頭性…。乗りやすさを考慮しつつ速さをも追求した「TZR250」は多くの2ストファンに支持された。1989年に発売される2代目には、ホンダが「MVX250」で挫折し、市販レーサーであるヤマハの「TZ250」が成し遂げた後方排気システムも導入された。ちなみにhitojimaさんの「TZR250」は初代のモデルだ。


hitojimaさん「TZR250」hitojimaさんのもちもの

 

しかし、80年代以降のレーサーレプリカブームの主役はなんと言っても「NSR250R」だろう。「NSR」が世界に初めて姿を現したのは1984年。翌年、フレディ・スペンサーがNSR500とNSR250RWを駆って、ロードレース世界選手権の500ccクラスと250ccクラスでダブルタイトル(後にも先にもダブルタイトルを成し遂げた者はいない!!)を獲得する事で、その実力は世界に衝撃を与える事になる。この後のロードレースでもホンダは、250cc、500ccの両クラスで、まさに鬼のような強さを見せる。

infychanさんのもちものにもある「NSR250R」はそのレーサーレプリカとして1986年に登場。ワークスマシンの圧倒的な強さと相まって絶大な人気を集めた。その性能はとにかく『スピード命』という言葉がぴったり。極限まで直線スピードを追求した造りは、決して扱いやすいというモノではなかったが、ワークスマシンの速さを体感できるその性能に多くのバイクファンが胸を躍らせたものだ。実際、「NSR250R」は宇川徹(元WGPホンダワークスライダー)や青木三兄弟(宣篤、拓磨、治親)など当時のレーサーたちに数多くの勲章を与え、世界へと羽ばたくきっかけを与えた。

復活の時を静かに待つ

レーサーレプリカをきっかけに盛り上がった2ストロークバイクだが、1999年を最後に各メーカーとも2ストバイクの生産・販売を終了してしまう。1970年代以降、環境への関心が高まりから各国で2ストバイクの規制が始まり、また日本においても自動車排出ガス規制の基準が上がったためだ。シンプルな構造ゆえに燃焼効率は悪く、またエンジンオイルが混合ガスと共に燃焼してしまうため、炭化水素や一酸化炭素など有害物質が排気ガスに含まれるという欠点を克服する事ができなかった。もちろん、ロードレースのレギュレーションの変更やバブルの崩壊など外的要因は多数あった事も事実。

世界的な流れに抗い最後まで2ストロークバイクを作り続けていたのは、イタリアのオートバイメーカー・アプリリア。排気量別に数車種生産されるレーサーレプリカ・スーパースポーツ「RS」シリーズのクオーター「RS250」は、スズキの2ストロークバイク「RGV250γ(ガンマ)」のエンジンを使っている。日本では「RGV250γ(ガンマ)」の新車生産・販売が終了した後も生産されていたが、スズキからのエンジン提供が終了した2003年に、その生産を終える。


zigsowユーザのもちもの
「aprilia RS250」 (zigsowユーザのみ観覧可能)

現在、世界で生産・販売されるバイクの約4割が日本の4大メーカーともいわれている。そんなバイク王国であるにも関わらず、国内に目を向けると、最近はやや盛り上がりに欠ける感が否めない。バイク用の駐車スペースの不足やエコブームなど、その要因はいろいろあるのかもしれないが、一抹のさみしさを感じてしまうのは私だけではないだろう。2ストロークバイクの生産が終了してから10年と少しが経過したが、その人気は依然として高く、中古市場でも人気車種はいまだに高値で取引されている。バイク好きとしては世界に冠たる日本のバイクメーカー各社に、自慢の技術を活かした環境に優しい2ストロークバイクを開発して頂き、再びバイクブームを巻き起こして欲しいと願わずにはいられない。

Zippo~ポケットの中の世界~

煙が目にしみる…

世界恐慌の暗い陰が未だ払拭しきれていない1933年の米国。禁酒法が解かれ、街はJAZZとバーボン、そして煙草の香りで満ちていた古きよき時代。ブロードウェイではジュローム・カーン作曲の「煙が目にしみる」が流行していた頃、「Zippo」はペンシルバニア州の小さな町でひっそりと誕生する。

ここ数年の嫌煙・分煙ブームは、健康上の理由やエチケットの面でも至極当然とは言え、愛煙家にとっては肩身が狭い、まさに煙が目にしみる状況だ。中には思い切って禁煙したって方も少なくなかろう。そうした世界的な嫌煙の流れにも関わらず、いまだに多くのファンから愛され続ける「Zippo」。わずか1500台の生産から始まったこのオイルライターは1996年時点で製造個数が3億個、2003年には4億個を突破し、近い将来5億個に届く勢いだ。

シンプルにして堅牢。強風の中でも炎が消えない抜群の耐風性。喫煙具として十分な機能を持っている事はもちろんだが、ファンから愛される理由はそれだけではない。今回はその魅力を少しだけ見てみよう。

ノベルティとして多様な世界を築く

成功する起業家に必要なのは奇抜な発明などではなく、優れた物に対する敏感なアンテナと、それを既存の技術に結びつけ付加価値を生むアイデア力であろう。「Zippo」の生みの親ジョージ・G・ブレイズデルはある日、パーティ会場で会った友人が両手を用いなくては火をつけられないオーストラリア製の扱いにくそうなオイルライターを使っているのを見る。彼は大いに友人を冷やかすが、友人は「火がつけばいいんだ」と返した。その言葉にブレイズデルは安くて性能が良く、丈夫で長持ちするライターは商売になるとひらめき、すぐさまそのライターの販売権を獲得する。彼はこのライターに使いやすいよう改良を加え、1933年に「Zippo」の最初のモデルを発売した。ちなみにこの時にブレイズデルが作ったライターの構造は、発売から約80年経つ現在も当時とほぼ変わっていない。

TAKOTVさんのもちもの


まっくさんのもちもの


N-DRさんのもちもの


丸ボロマンさんのもちもの

 

こうして優れたオイルライターを開発したブレイズデルだが、真骨頂はここから。喫煙が盛んだった世の流れを読み、ライターの広告媒体としての可能性に気付いた彼は、「Zippo」をノベルティグッズとして利用するよう企業に売り込んでいく。今でいう企業のロゴ入り100円ライターの祖先と言っていいだろう。この戦略は見事に当たり、マルボロやキャメルなどのタバコ銘柄を始め、多くの企業のロゴの入った「Zippo」が作られる事となる。

ブライズデルが果たしてどこまでこの状況を予見していたかは分からないが、これまで作られた「Zippo」の約4割がこうしたノベルティ関連の物。このノベルティグッズ路線こそが多くの収集家たちを惹きつけ、そして「Zippo」のユニークで多様な世界を作りあげる事になる。収集家のコレクションもブランドやデザイン、希少性など、それぞれ重きを置く分野が分かれているのが面白い。

もう一つコレクターたちの心をくすぐる点は、ボディの形状や素材、ロゴが年代によって少しずつ異なるところだ。特に第2次世界大戦以前の各年代の「Zippo」は現存する数も少なく、ビンテージ物として人気を集めている。特に人気の高い年代の物はたびたび復刻モデルとして限定発売されたりもしているが、こちらも競争率はかなり高い。また、「Zippo」社の創業50周年以降、5年おきに出されているアニバーサリーモデルや、歴史的な出来事にちなんで発売される「Zippo」もコレクターであれば押さえておきたい一品だ。

zigsowユーザのもちもの
(zigsowユーザのみ観覧可能)

zigsowユーザのもちもの
(zigsowユーザのみ観覧可能)

 

兵士と共に歩んだZippoたち

「Zippo」の歴史を語る上で、外してはならないのが戦争との関わり。米国ではその堅固で、どんなタフな状況でも着火する性能を軍に認められ、第2次世界大戦では製品のすべてを軍へと供給した。以降も、朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争と数々の戦場を兵士と共に駆け抜け、多くのエピソードを産む事となる。“胸に当たった銃弾を「Zippo」が受け止め命拾いした”“後にピューリッツア賞を獲り、沖縄で戦死する従軍記者のアニー・パイルが「Zippo」の底に次の作戦地を書き下士官に知らせた”…など枚挙にいとまがない。また日本を始めとし、米軍が駐留した多くの国の国民からは、駐留する米兵が使う「Zippo」が『豊かで自由な国・アメリカ』の象徴のように映った事が、多くの国で広まっていった一因なのかもしれない。

こうした戦時下で使用された「Zippo」の中でも、第2次世界大戦中に兵士たちに使われた「ブラック・クラックル」を始め、ベトナム戦争下で使用された「ベトナムZippo」はコレクターの間でも人気の高いアイテムだ。ベトナム戦争自体、その始まりをいつとするかで意見が分かれるため、どこまでを「ベトナムZippo」と呼ぶかは諸説あるようだが、多くは次第に戦火が激しくなる1965年前後から米軍がベトナムより撤退する1973年前後に作られ、現地のPX(キャンプ内の購買部)で売られた物と思っていいのだそう。

zigsowユーザのもちもの (zigsowユーザのみ観覧可能)

ベトナム戦争当時、PXに入荷された「Zippo」は大変な人気を呼んだ。火を付け、金槌代わりに使え、軍用食を温め、暖をとる事もできる。ジャングルで戦う兵士にとって心強い味方だったのであろう。兵士たちの多くはそれをサイゴンのマーケットのベトナム人彫師たちの元に持ち込み、思い思いの言葉を刻んだ。自分の所属する部隊のエンブレムや好きな言葉、ポエム、信条、ジョーク、故郷へ置いてきた愛する人へのメッセージ…。やがて戦局が厳しくなるにつれ、そのメッセージは重く悲しく、シニカルになっていく。特にベトナム戦争後期の物には遠い母国で高まる反戦運動の機運も相まって、国のために戦う兵士としての自己の存在への疑問、ブラックなジョーク、平和への祈りなどが刻まれている事が多い。

こちらのzigsowユーザのもちもの(zigsowユーザのみ観覧可能)である「ベトナムZippo」は、ボトムの裏の刻印からすると戦況が徐々に激しくなっていく1968年製の物。激しい戦火をくぐり抜けてきた事を偲ばせる傷だらけのボディ。まさに「ベトナムZippo」ならではの風合いだ。刻まれた文字や描かれた絵を、当時の兵士たちの境遇に思いを馳せながら眺めると、実に味わい深いものがある。また「ベトナムZippo」には、その人気の高さゆえに贋物も数多く存在する。ボトムやインサイドユニット(ケースの中のボディ)のロゴや年代を表すコードに矛盾はないかなど、真偽を見分ける手段はいくつかあるが、その精度も以前に比べると格段にアップしてきているため、一見しただけでは判断が難しい。ただ、持ち主にとっても貴重な品物であるはずだから、あまりにも安い物はコピーと思って差し支えないだろう。

ここまで「Zippo」の魅力である多彩な世界をかいつまんで紹介してきた。そのデザイン性に加え、使い込まれる事によって生じる風合いや刻まれていく思いこそがこの「Zippo」の醍醐味だろう。さて、結びになってしまったが、もう一つ忘れてはいけない魅力がある。それは永久保証だ。表面のキズや摩耗は対象外だが、機能的な故障に関しては「Zippo」社へ送れば無償で修理してくれるのだ。しかも返送料も負担してくれる。これは創業以来続いているサービスであり、創業者ブレイズデルの製品に対する自信と誇りが伝わってくる。ちなみに「Zippo」社ではたとえペシャンコに潰れた物であっても同等の物に交換してくれるが、偽物の場合は修理せずに返送される。「Zippo」が「Zippo」たる所以がこんなところにも表れているのだ。

万年筆の復権

万年筆、それはインテリジェンスの証し

20世紀半ばまでは筆記具の盟主として君臨するも、手入れ が不要なボールペンの登場でその座を追われた万年筆。哲学を感じさせるシンボリックなデザインや希少性ゆえに、万年筆には持ち主のインテリジェンスや人柄 を映す不思議な力が宿っているのではないかと思えてくる。近年、コレクターズアイテムとして人気を博しているのは、その希少性やラグジュアリーなデザイン 性が理由ではなかろう。

もちろん、筆記具としての実用性が向上したことも愛好者を増やしている一因。扱いやメンテナンスには注意を払う必要 はあるが、その手間を差し引いても、使うたびに自分の手に馴染んでくる極上の書き心地は他では得難いものがある。ペンを握る機会が少ない現在だからこそ、 万年筆で書くことの悦びをなお一層実感できるのだ。

 

輝かしい誕生から流行、そして黄昏

万 年筆の誕生をいつとするかは意見が分かれる。1748年にイギリスのヨハン・ジャンセンが考案した金属ペンとする説もあれば、1809年に同じくイギリス のフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが発明し特許を取った、ペン軸にインクを貯める事ができるペンとする説もある。だが、現在の万年筆の機構を生 み出したのはアメリカの保険外交員ルイス・エドソン・ウォーターマンだ。

 

 

あ る日、彼は大口の契約を取り交わす際、ペンから漏れ出たインクのために大切な契約を逃してしまう。その苦い経験を元に1883年、世界で初めて毛細管現象 を応用した万年筆「ザ・レギュラー」を創り世に送り出す。その後、万年筆メーカー「ウォーターマン」として、グリップ付きのキャップを世界で初めて発売す るなどパイオニアとしての実績を十二分に残すが、アメリカ法人は倒産。現在はフランスを本拠地にブランドを展開している。機能性の追求だけでなく、著名な デザイナーとのコラボレートでデザインの向上にも力を入れており、bibirikotetuさんやAileさんのもちもののように美しいカラーリングとエ レガントなフォルムが特徴。まさにライティング・ジュエリーの名に相応しいともいえる。

さて、こうして登場した万年筆は瞬く間に世界へと広 がっていった。ビジネスの場面で、公文書の記録に、文豪たちの名作の誕生に…万年筆は実にさまざまなシーンで活躍。また、多くの歴史的瞬間に立ち会う事と なる。中でも1945年、太平洋戦争敗戦後の戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式でダグラス・マッカーサー元帥が署名に用いた「パーカー」の「デュオフォー ルド」が有名だろう。その後も、1993年に米ロ間で結ばれたSTART2(第2次戦略兵器削減条約)の調印式で、当時のブッシュ大統領とエリツィン大統 領に使われるなど、その名を2度も歴史に残す。このため「平和のためのペン」とも呼ばれるようになった。「パーカー」は現在、英国王室御用達のペンメー カーで、洗練されたスマートなスタイルと耐久性がその特徴だが、愛好家から人気が高いのはやはり、長い歴史を持ち独特の重厚なフォルムが高級感を醸し出す 「デュオフォールド」だ。AKIRAさんのもちもの、デュオフォールド・クロワゾネ・リミテッドエディション・センテニアルは、1927年に発売された デュオフォールド・マンダリンイエローをモチーフにした限定品。世界に3900本しかないプレミアムな一品だ。
パーカー デュオフォールド クロワゾネ リミテッドエディション センテニアル(AKIRAさんのもちもの)

 

万年筆復権の立役者~ドイツの名品たち~

20 世紀の半ば、万年筆に強力なライバルが出現する。ボールペンだ。1940年代にはすでに開発されていたボールペンだが、急速な品質の向上と低価格化により 万年筆から筆記具の主役の座を奪ってしまう。時は高度成長期、能率が優先される時代にあっては至極当然の流れであった。

それからの数十年、 万年筆にとってはまさに冬の時代を迎える訳だが、それは一概にマイナスだったという訳ではない。大量生産ではなく、流行にも流されず、限られた愛好家たち に向けて作り続けられる事で、万年筆はさらなる魅力を醸成していく。中でも次に紹介する職人の国ドイツの2大メーカーは、現在の万年筆の復権の立役者と 言っても過言ではないだろう。

 



モンブラン 50′s マイスターシュテュック149(お富さんのもちもの)

 

その一翼を担うのは万年筆の最高峰とも呼ばれる「モンブラン」だ。日本人の間では一時期、『万年筆=パーカー』というイメージがあったものだが、今やその 座は完全にモンブランのものだろう。トレードマークは、アルプスの最高峰でもあるモンブラン山の頂とそれを覆う氷河をイメージした天冠のホワイトスター。 ニブには美しい彫刻と共にモンブランの標高である「4810」の数字が刻まれている。1906年の創業以来、「モンブラン」は実に数々の名品を世に送り出 してきたが、中でも傑作と呼ばれているのは1924年に誕生した「マイスターシュテュック」。特に「マイスターシュテュック149」は、万年筆を愛する人 であれば誰もが1本は手にしたいと思う逸品だ。

ずっしりと手に収まる黒いボディに光り輝く黄金の三連リング、そしてヨーロッパの職人の技が 凝縮した大ぶりのニブ。ペン先が踊るような書き味も抜群だ。ただ、高級ブランドグループ「リシュモン」に買収されて以降、ブランド力の向上に重きが置かれ 価格は年々上昇しすっかり高嶺の花になった感もある…。また年代により書き味も異なり、愛好家の間ではどのモデルが最良なのかで議論が尽きない。その魅力 の奥深さが伝わってくるエピソードと言えよう。

上で紹介した、お富さんのもちもの「50′s マイスターシュテュック149」は、「149」の中でも希少なコレクター垂涎のヴィンテージモデル。通常は金であるトレードマークのキャップリングの色が 銀金銀のツートンになっているのは、50年代の物だけの特徴だ。美しい艶を湛えるボディはセルロイド製。現行モデルとはまた違う、温かみのある握り心地と 柔らかな書き味はまさに絶品。マイスターシュテュック(=ドイツ語で傑作の意)の名に恥じない不世出の一本だ。



モンブラン マイスターシュテュック139(お富さんのもちもの)

 

「149」 よりもさらに上を行くとい言われる「モンブラン」の名作が上の「マイスターシュテュック139」。1930年代から1940年代の終わりまで作られた「モ ンブラン」の最高級モデルにして、「149」の原点。コレクターの間では幻と言われている1本だ。「149」に比べるとやや男性的なフォルムをしている が、愛好家の間ではこの「139」を支持する人も多い。そして、この「139」を有名にしたのが下の、モンブラン作家シリーズの中でも相当な高値を付けて いるペン「ヘミングウェイ」だ。1992年に数量限定で発売され、一時期50万円程度(現在は30万円程度)の高値が付いた逸品。今でもオークションに出 れば、確実に高値で売れる人気アイテムだ。「139」のフォルムに酷似した堂々としたフォルムと、金と濃い茶、朱色の渋いカラーリングがヘミングウェイの イメージに実にマッチしている。ちなみに当のヘミングウェイ本人はパーカー51を使っていたというが、そこはご愛敬。



モンブラン ヘミングウェイ(お富さんのもちもの)

 

さ てもう一つ、ドイツを代表するブランドが「ペリカン」だ。天冠に入るトレードマークはペリカンの母子像。「モンブラン」の“傑作”に対して、こちらの代表 作は1929年に登場したスーベレーン(=優れもの)シリーズ。中でも王道と言われるのが、お富さんのもちものにもある1987年に登場した「スーベレー ンM800」シリーズだ。特徴的なクリアと緑の縦縞柄が印象的な胴軸。堂々としたフォルムに似合わぬ、軽快で柔らかな書き味で世界中のファンを魅了し続け ている。また「ペリカン」はユニークな商品ラインナップも人気の一つ。atsuo@tokyoさんのもちもののにもあるリーズナブルであるが本格派の書き 味を楽しめる子供向けの「ペリカーノジュニア」から伝統的手法で丹念に作られる最高級品の「トレド」、世界の七不思議シリーズや世界の都市シリーズなどの コレクター向けの限定品まで実に幅広い。



ペリカン Souverän Füllhalter M 800(お富さんのもちもの)

 



ペリカン ペリカーノJr (atsuo@tokyoさんのもちもの)

 

かつての万年筆大国・日本は・・・

代表的な胴軸素材であったセルロイドの生産量が世界一だった事もあって、戦前は世界の万年筆生産量の半数近くを日本が占めていた。現在も「パイロット」 「プラチナ」「セーラー」の三大メーカーを始め、多くのメーカーが万年筆を生産しており、かつての勢いこそないが、綿々と受け継がれてきたその伝統と技術 は外国の万年筆と並べても遜色なく、銘品も多い。

中でも万年筆の良し悪しを決めるニブに関しては、世界的にも高く評価されているものの一 つ。日本語独特の「トメ」「ハネ」「ハライ」を美しく表現するために、多くの職人たちが積み上げてきた努力と技術の粋が結集しているからだ。ここでは 「セーラー」の「プロフィット21」を紹介しよう。このシリーズの特徴は日本語を綴るのに適した繊細で柔らかな書き味とシンプルだが高級感のある仕上が り。ちなみにgaucheさんのもちものは、穂先の左側にカットを入れた左利き仕様だ。つきさんのもちものは、万年筆ファンからの人気も高い「長刀(なぎ なた)研ぎ」。その名の通りペンポイントが長刀のように長く仕上げてあり、文字を書く時の角度で細字から太字まで調節して書く事ができるというものだ。

 



セーラー プロフィット21 レフティ(左きき用) gaucheさんのもちもの画像



透明プロフィット21 銀 長刀研ぎ(つきさんのもちもの)

 

愛蔵する悦び、こまめな手入れを要するがゆえに湧いてくる愛着…万年筆は実に多くの魅力を秘めている。ここまで、持つ者の所有欲を満たしてくれる数々の名 品たちを紹介してきた。しかし、あくまで万年筆は“書く”ための道具。自分の手に馴染む1本と出会い、ペンを走らせる楽しさこそが一番の魅力であろう。デ ジタル全盛の現在だからこそ、最良のパートナーと共に、その贅沢なひとときをじっくりと堪能してみてはいかがだろうか。

自転車はいざなう

単なる足から、かけがえのないパートナーへ

いま、自転車が空前のブームを迎えている。ここ最近のガソリンの高騰をきっかけに通勤手段を車から自転車に切り替えたという人もいれば、エコの観点から、はたまたメタボ対策で乗り始めたという人まで、その理由はさまざまだ。現在、国内の自転車保有数は8600万台を超えると言われる。商業用も含めた自動車の保有台数が約7380万台(※1)というから、いまや自転車は国民の立派な『足』である。

まあ、自転車に乗り始めたきっかけはなんであれ、ブームがこうして長く続いているのはその大多数が「自転車の魅力にハマってしまったから」であろう。軽く、早く、おまけに楽しい!
乗り始める前に抱いていた、ひと昔前の重くてダサい“ママチャリ”的なイメージを鮮やかに覆してくれる魅惑の自転車たち。今回はレビュアーの皆さんのとっておきの愛車と共に、その魅力を紹介していこう。

※1:(社)日本自動車工業会 2009年度調べ

 

 

進化する自転車たち

自転車の原型と言われるドライジーネを、ドイツのドライス男爵が発明してからおよそ200年。当時はフレームも車輪も木製。地面を蹴って進む物だった。ちなみにペダルが付いた物が登場するのは19世紀中頃、空気入りのゴムタイヤが登場するのはさらに後の19世紀末のことで、イギリスの獣医ジョン・ボイド・ダンロップによる空気入りタイヤの発明を待たなくてはならない。ちなみにこの方、あのダンロップタイヤの始祖である。

しかし20世紀に入り、自転車は飛躍的に進歩。素材も木製からスチール製へ、そしていまやチタンやカーボンなど、ロケットや飛行機に使われる最先端の素材が使用されている。フォルムや性能も、用途や目的に合わせて枝分かれして進化してきている。現在のブームを牽引しているのは、ロードバイク、マウンテンバイク、クロスバイクの適性の異なる3タイプの自転車。まずは、それぞれの魅力について見てみよう。

 

まずはロードバイク。ツール・ド・フランスを始めとする各種ロードレースで活躍しているのがこれ。ロードレーサーとも呼ばれ、舗装された道路を高速で走行するのに適した自転車だ。前傾姿勢を余儀なくされる高いサドルとドロップハンドルが、そのシルエットの大きな特徴。レース仕様のためとにかく軽量で、一般的な“ママチャリ”が15~16kgはあるのに対し、ロードバイクは7~8kgと乗った際に重さをまったく感じさせない。設計にはスピードを第一とした思想が随所に散りばめられており、泥よけやスタンドなど高速走行に余計なパーツは装備していない。それ故、街乗りには適しているとは言えず、以前は競技志向の人がユーザーの中心だった。しかし近年はその優れた性能やシンプルで機能的なフォルムに惹かれ、通勤や通学、またファッションの一つとして所有するなど競技志向ではないユーザーも増えてきている。

一度手にしてしまうと、自分好みにカスタマイズしたくなるのも、このロードバイクの不思議な魅力。
それを支えるのがコンポーネント(周辺パーツのセット)の存在だ。フレームとの組み合わせにより、実に多種多様な車両バリエーションを楽しむ事ができる。レースにおいてはあくまで重量と性能に比重を置いてセレクトされるが、一般ユーザーの間ではデザインも重視して、さまざまな形でカスタマイズされている。また欧米などロードバイク先進国では、フレームからオーダーメイドで作るメーカーも存在する。その代表格が冒頭の写真で紹介したお富さんのもちものである「SEVEN CYCLE」。オーダーに合わせ、一台一台丹念に作られるハンドメイドの自転車は、ロードバイクの魅力に取り付かれた人間ならば誰もが憧れる、まさに夢の一台だ。
そしてこちら、「コルナゴEPS(エクストリームパワースーパー)」は、おそらくロードバイクの中でも最高峰のポテンシャルを持つ一台だろう。計算されつくした高剛性が生む優れたスピード、素直な操縦性は他の追随を許さない。・・・にしても、写真でご紹介した(´・ω・`)旦さんのカスタマイズはすごい。

次に紹介するのはマウンテンバイク(MTB)。外見的には堅牢なフレーム、どんな状況下でも路面をしっかりと捉える幅の広いタイヤが特徴。その名の通り、山岳や路面状況がハードな荒野での走行に適しているが、走行するシチュエーションに合わせてさまざまなタイプのMTBが存在する。クロスカントリーやトライアル、ダウンヒルやダートジャンプなどそれぞれの用途によって、サスペンションの位置やフレームの造り、ギアやブレーキが大きく異なる。

sadaさんのもちもの「センチュリオンBACKFIRE800」はどちらかと言えばクロスカントリー仕様。通常、マウンテンバイクのタイヤは26インチが主流なのだが、29インチを着用しているため走破性が高く、また街中においても快適に走る事ができる。

 

昨今の自転車ブームで自転車ツーキニスト(通勤に自転車を使う人)から多くの支持を集めているのがクロスバイク。ロードバイクとMTBをクロス(交配)させたという意味でこう呼ばれる。クロスバイクに多く用いられるフラットバー(横一文字のハンドル)は、ロードバイクに比べサドルよりも高い位置に設けられているため乗車時の姿勢が楽なのが特徴。またタイヤはMTBに比べて幅が細いため、ロードバイクに近いスピード感を楽しめる。ロードバイクに比べて段差にも強く、また操作性も良いため、初心者や女性の間での人気が高い。

アメリカのキャノンデールが作るクロスバイク、mappyさんのもちもの「バッドボーイ」。ロードレース用の自転車をはじめ、早くからMTBも手掛けていた事もあり、両者の良さが見事に調和している。スピード感と快適な乗り心地、その両方を兼ね備えたシティライドが楽しめるのだ。

 

 

そしてより楽しく、より快適に・・・

さて、ここまでは速さや乗り心地、悪路での走破性に優れた人気の3車種を紹介してきたが、自転車の進化はこれ以外にも様々な方向にその枝葉を伸ばしている。たとえば、現在の自転車ブームの中でも重要な位置を占めるミニベロは忘れてはいけない存在だ。

 

ベロ(VELO)とはフランス語で自転車の事。いわゆる車輪が20型以下の小径の自転車を言う。小回りが利き軽量。また見た目のかわいらしさもあり、特に女性からの人気が高い。以前は非力、安定性がない、スピードが出ないというイメージもあったが、最近のミニベロの中にはロードバイク顔負けのスピードを出す物もある。

ミニベロのカテゴリーでは小型の折りたたみ自転車を含むが、写真で紹介しているのは折りたたみ自転車で有名なブロンプトン社の「L3」。現在、折りたたみ自転車は数多く存在するが、手早く、コンパクトに折りたためるという点では、ブロンプトンの自転車に勝る物は少ない。折りたたんだ後のフォルムにもある種の機能美があり、持ち上げても形状がくずれる事がない点も人気である所以か。

ここまで紹介してきた以外にも、ブームに乗って多様な自転車が登場してきている。たとえば、2人や3人で直列に乗ってペダルをこぐタンデムや、仰向けに近い状態で乗るリカンベントなどがそれだ。まだまだポピュラーな存在とまではいかないが、わずか200年前まではチェーンもペダルも無かったのだから、新たなスタイルの自転車が主流派にとって変わる可能性は否定できない。たとえば、こちらのMochiponさんのもちもの。

 

どうだろう、この個性的なフォルムは!! こちらは国内の「17バイシクル」というメーカーが出している「セミリカンベント」というタイプの自転車。コンセプトは「安全で速くて、とにかく楽しい自転車」。リカンベントタイプの自転車のデメリットであった低速走行時の安定性を、ハンドルを座席近くに寄せたり、その回転軸を垂直にするなどして改善。これまでの乗馬スタイルの自転車とは、また違った世界観や楽しみを提供してくれそうだ。

 

さて、今回はさまざまなタイプの自転車を紹介してきたが、いかがだったであろう? 暑さもひと段落したこれからのシーズン、思い思いの自転車に乗って、街や山に繰り出してみたい。

※撮影機材
・カメラ:Leica M9 “Titanium” ・レンズ:Leica summilux M f1.4/50mm ASPH.

ライカ黒塗りの世界

黒塗りに魅せられて

ライカのブラックペイントほど、私の心を踊らせてくれるカメラは無い。そういう存在になるとは、手に入れるまでは夢にも思わなかった。触れて、使って、初めてその良さが理解できる。それがライカのブラックペイントだ。今回は、そのブラックペイントについて大いに語らせていただこう。

ブラックペイントの一番の魅力は、何と言っても色にある。他の多くのライカが、シルバークロームの上品な面持ちであるのに対し、ブラックペイントは非常に攻撃的な雰囲気を漂わせている。使っていくうちに塗装が剥がれて、真鍮が剥き出しになっていくのも独特だ。漆黒のボディと、擦れて剥き出しになった金色との組み合わせは大変に格好良い。

ブラックペイントは、シャッター音も美しい。クロームモデルのシャッター音が、精密さを感じさせる若干金属的な音であるのに対し、ブラックペイントは独特の倍音を伴った美しい響きを聴かせてくれる。とりわけ中低速シャッターの響きの優雅さには、神々しさすら感じる。

ここまで書いて再認識した。やはり、私は、病的にライカのブラックペイントを愛しているようだ。これほどまでに、私を夢中にさせるブラックペイントとは、いったい何なのだろうか。以降は、ブラックペイントの歴史と、それぞれの特徴について記していこう。

黒塗りの系譜

1913年、後に伝説となるカメラがひっそりと誕生した。それは黒塗りの金属製暗箱にレンズと直視ファインダーを取り付けた、簡素なカメラであった。それが、まさか35mmフィルムカメラの元祖となろうとは誰が考えたであろう。

そのカメラは、およそ10年の雌伏の時を経て「ライカ(= ライツ社のカメラ)」と命名され、発売された。伝説の始まりである。

最初に発売されたライカ1型は、美しいブラックペイントが施された精悍な顔立ちのカメラであった。小型軽量で機動性に優れるライカは、たちまちプロの報道カメラマンやアマチュア写真家の心を掴んだ。それは、この先ライカが多くの歴史的瞬間に立ち会うことを意味した。

その後、ライカは市場のニーズを汲み取りながら、レンズ交換機構やレンジファインダー機構などいくつもの改良が加えられ、様々なバリエーションモデルを展開していった。当初ブラックペイントから始まった外観も、売れ行きや顧客からの評判であろうか、2型から3型へと世代を経ていくにつれ、銀色クロームメッキへとシフトしていき、一時的にではあるが、ブラックペイントが市場から姿を消すことになる。

ライツ社はライカ1型発売から30年の歳月を経た1954年に、ついに、レンジファインダーカメラの最高傑作「M3」を作り上げた。M3の精密で堅牢なつくりは、多くのカメラマンに支持されることとなり、ライカはコンパクトカメラ市場における確固たる地位を築き上げた。ここにきてライツ社は、プロフェッショナル仕様として、ブラックペイントを再びラインナップさせることになる。

以降は、M3の兄弟機である「M2」、そして後継機である「M4」においても、ブラックペイントを少量ながら生産していった。

M型ブラックペイント

M3は、これまで作られてきたバルナック型ライカ(※1)とは全く違う新設計のライカとして誕生した。おそらく、ライツ社はバルナック型ライカを再設計していく従来の手法に限界を感じたからであろう。

まず、レンズマウントを従来のスクリュー式からバヨネット式に変更して、レンズ交換を迅速に行えるようにした。それから、フィルム巻き上げを回転式からレバー式に変更し、撮影動作そのものを高速化した。前期型のM3は、このレバー操作を2回行ってフィルム巻き上げるため、ダブルストロークモデルと呼ばれる。後期型は1回のレバー操作で巻き上げが行える。当時のライツ社は、巻き上げ操作の改造をユーザーから公式に受け付けており、多くの前期型がシングルストロークに改造された。実用上はシングルストロークの方が使いやすいのであろうが、熱心なM3愛好家はダブルストロークを信奉してやまない。

ファインダー機構にも大きな改良が加えられた。それまで50mmレンズの視野枠にしか対応していなかった内蔵ファインダーは、50mm、90mm、135mmに対応した。独立していた測距ファインダーとフレームファインダーが一体化され、そこに採光式のブライトフレームを組み合わせて、明るさと見やすさを大幅に向上させた。さらには、レンジファインダーカメラの泣き所であるパララックス(※2)を自動的に補正するという極めて高度な機能をファインダーに盛り込んだ。M3はレンジファインダーカメラが抱えていた問題点を、ほとんど解決してしまったのだ。21世紀の今日においても、これほど高性能なファインダーは存在しないであろう。

当時、M3のあまりの高性能ぶりに、多くのカメラメーカーはレンジファインダーの開発を諦めて、一眼レフの開発へと移行してしまった。あのカール・ツァイス(※3)でさえ例外ではなく、M3登場から程なくして35mmフィルムカメラ事業から撤退してしまった。M3の登場はライカの歴史においても、カメラ史においても、最も大きな出来事のひとつであった。

M3は1954年の登場(製造番号700000番)から1968年の製造完了までに、20万台以上が製造された。高級カメラとしては異例の大成功であっただろう。しかし、M3ブラックペイントは、わずか1300台しか製造されなかった。

M3ブラックペイントの製造開始は意外に遅く、M3の登場から5年も経過していた。製造番号は959401番から始まり115万番台まで続いている。その間に、毎年100台から300台程度の少数ロットで製造されていたようだ。プロフェッショナル色の強いカメラのため、使い潰された個体も多く、市場に流通する数は少ない。

初期のM3ブラックペイントは、ストラップのつり輪まで黒塗りが施されていた。さらに、黒塗りで三角形のつり輪が付いた最初期のM3ブラックペイントは、ごく一部の特殊モデルを除けば、M型ライカの中で最も稀少価値が高い。

(※1)ライカの生みの親であるオスカー・バルナック氏にちなんで、M型以前のライカをこう呼ぶ。
(※2)三角測量を行う測距レンズと、実際に像が投影される撮影レンズとの視差。
(※3)1846年創業。光学機器メーカーの最大手。


M3の次に登場したM2は、広角レンズ使いに人気のモデルだ。M2は、M3のジュニアモデルとして発売されたため、いくつかの機能が変更されている。

特に大きな変更点は、内蔵ファインダーの仕様だ。M3よりファインダーの倍率を下げて、視野枠を35mm、50mm、90mm対応に変更した。これにより、135mmフレームは失ったものの、35mmフレームが新たに加わったため、M2はスナップ撮影に使いやすいカメラとなった。M2のファインダーは、M3のものより簡素化されたものであるが、十分に高い光学性能を有するため、実用上の差はあまりない。

M2のファインダーにはM3より優れた点がある。M3のファインダーには常に50mmの視野枠が表示されているため、50mm以外のレンズを使用すると2つの視野枠が表示されてしまう。これに対し、M2のファインダーは装着したレンズの視野枠しか表示されないため、大変スッキリとして見やすい。

他の変更点では、M3では自動復元式であったフィルムカウンターが手動式になった。これは明らかにコストダウンのためであろう。M3に標準装備されていたセルフタイマーも発売当初のM2には付いていなかった。その後、顧客からの要望であろうか、時折セルフタイマー付きのM2が製造されるようになった。また、フィルム巻き戻し解除が、初期はボタン式であったのに対し、後期はレバー式となった。初期のボタン式は見た目も愛らしく人気が高い。

M2は1957年(製造番号926001番)から1968年の製造完了までに8万5千台以上が製造された。しかしながら、M2ブラックペイントは、わずか2400台しか製造されなかったうえに、M3ブラックペイントと同様に、プロカメラマンに使い潰された個体が多く、こちらも現存数は少ない。

M2ブラックペイントの製造番号は948601番から始まっており、M3ブラックペイントよりも番号が古い。仮に番号通りに製造されていたのならば、M3ブラックペイントよりも先にM2ブラックペイントが少数存在していたことになる。本来はM3のブラックペイントに古い製造番号が与えられて然るべきであろう。そのため、94万番台のM2ブラックペイントは、「奇跡のブラックペイント」としてコレクターの間で珍重されている。

また、M3と同様にM2ブラックペイントの前期型にも、つり輪に黒塗りが施されている。他にも、セルフタイマーの有無など、様々なバリエーションが存在する。


3つめに紹介するM4は、M3とM2の開発で培った様々な経験や、顧客からの要望を基に、「撮る」ことをひたすら追求した、最も実戦向きのライカだ。

ファインダーはM2をベースに改良され、視野枠は35mm、50mm、90mm、135mmの焦点距離に対応した。35mmと135mmは同一フレームに表示される。これにより、M4以降のライカは広角から望遠レンズまで幅広く使えるようになった。

巻き上げレバーにも改良が施され、従来の湾曲した1軸レバーから、角型の2軸レバーに変更されて、さらにスムーズな巻き上げが可能となった。巻き上げ終えたレバー先端は、撮影の妨げにならない絶妙な位置で止まってくれ、シャッターを切った後の再巻き上げを、まるでカメラが促してくれるかのようだ。これほど自然に撮影をアシストしてくれる機械式カメラが他にあるだろうか。

M4はフィルムの出し入れも素早く行えるように改良され、従来の取り外し式のスプールから、ラピッドローディングと呼ばれるカメラ固定のスプールに変更、フィルム装填時間が大幅に短縮された。また、フィルムの巻き戻しも、ノブからクランクに変更となり、回し易いように角度も付けられた。これらの改良により、ライカのウィークポイントであったフィルム周りの取り回しは劇的に改善された。

機能美の塊ともいえるM4のデザインは、発売から40年以上を経た現在も、微塵の古さも感じさせない。それどころか、機械として成熟しきった、ある種の貫禄すら漂わせている。デジタル機を含むM6以降の近代M型ライカは、全てM4をベースに作られている。

M4は一眼レフ全盛の1960年代中盤から、約10年に渡り5万8千台程度が製造された。時代背景からしても、先代のM3やM2に比べて、商業的に苦戦を強いられたであろうことは想像に難くない。

M4ブラックのバリエーションは、M3やM2とは少々違い、前期型がブラックペイントであるのに対し、M5発売以降に製造された後期型はブラッククローム仕上げである。前期型のブラックペイントは塗装の質も高く、「ぬらっ」とした独特のエナメル質の光沢が美しい。M3やM2のブラックペイントに見られた激しく色落ちした個体も少ない。ブラッククロームは色落ちの心配は少ないが、人気はブラックペイントの方が高いようだ。M4ブラック仕様は、M3やM2に比べればタマ数が多く、状態の良い個体も入手し易い。

デジタル全盛の今

撮影の主流がフィルムからデジタルに変わったことで、2006年、ついにライカ社もM型ライカ初のデジタル機M8を発売した。ライカのデジタル路線への歩みはさらに速度を増して、現在はフルサイズ撮像素子(35mmフィルム相当)のM9へと進化を遂げている。これらのデジタル機にも、ライカのDNAは確実に受け継がれており、なおも多くのファンに愛され続けている。

デジタル全盛の時代であるが、旧来のフィルムライカとて健在だ。少なくなったとはいえ、フィルムは十分な量が生産されており、現像やプリントの専門業者も多く残っている。メンテナンス体制も万全で、ライカジャパンでは、ドイツ本国でトレーニングを受けた熟練の職人がライカの修理を行ってくれる。その他にも各地に修理専門業者が存在し、どんなライカであろうと大抵の場合は修理してくれる。なによりも嬉しいのは、修理に携わる職人の誰もが、私と同じようにライカを愛していることだ。そんな方々に支えられながら、旧世紀のライカも、まだまだ現役として活躍し続けてくれるだろう。

「選ぶ」「探す」「使いこなす」。一台のライカに出会うためのプロセスから始まり、実際に手に入れた後も長きに渡って、あるいは世代を超えて納得できるもの。撮る楽しみだけにとどまらず、持っているということ自体にワクワクする気持ちを持てるもの。これこそがライカの本質であり、懐の深さである。

※撮影機材
・カメラ:LEICA M9 ・レンズ:VISOFLEX 3 + ELMAR 65mm