人はなぜ記録を残そうとするのか
人は事あるごとに、カメラやビデオを使って思い出を記録する。旅先で、家族や友人との集まりで、結婚式や誕生会などのセレモニーで。特に子供のいる家庭では、ビデオカメラを持っていない家などほとんどないだろう。胸に秘めた思い出も貴重だが、映像はそれに勝る雄弁さを持つ。また録画の存在は人々の生活を大きく変えた。テレビに張り付いていなくても予約をしておけば好きな時に観る事ができる。撮りためたビデオをゆっくりと見返すのは、何とも楽しいひとときだ。
映像や音声を記録する技術は、それほど長い歴史を持っているわけではない。フィルムを使った映像の記録や音声を記録する装置の原型は、いずれも19世紀後半から20世紀初頭にかけてようやく誕生したものだ。しかしその後、『記録に残す』技術は目覚ましく進歩していく。中でもドイツ人技術者フリッツ・フロイマーによって発明されたプラスチックテープを使った録音技術は、第2次世界大戦中、ナチスによってさらに研究が進められ、お得意のプロパガンダや実戦での戦闘にも応用された。戦後、そうした技術の遺産はアメリカが持ち帰り、1947年には3M社が現在とほぼ同じ仕様の磁気録音テープを発売する。1950年代に入ると東京通信工業(1958年にソニー株式会社へ社名変更)を始めとした日本企業も、磁気録音テープやレコーダーの開発に参入していく。
こうした磁気を用いた音声の記録・再生技術はテレビジョンの普及に伴い、映像の録画への応用が模索されていく。そして1956年、アメリカのアンペックス社が磁気録画方式を用いた実用的なビデオカセットレコーダー「Ampex VRX-1000」を、3M社がそれに使用するビデオテープを発売する。しかしこのレコーダー、当時の金額で5万ドル。とても一般家庭で使用するような代物ではなく、テレビ局や制作会社の間でしか使われなかった。1960年に入ると、ようやく日本のメーカーもVTR(ビデオテープレコーダ)の開発に本格的に参入。1963年にはソニーがオープンリール式VTR「PV-100」を発売。それまでのVTRに比べサイズを大幅に縮小、スチル機能も搭載させた。そしてその2年後には「CV-2000」を発売する。定価198000円、重さは15キロ。当時としては驚異的な安さで、近い将来の一般家庭への普及を予感させるものだった。
その後、国内外合わせてさまざまなメーカーがVTRの開発・販売に乗り出すが、当時は規格が統一されておらず、ビデオテープの幅、テープの設置方法などさまざまなタイプのVTRが世間に出まわっていた。互換性はほとんどなく、ユーザービリティに欠けていたため一般家庭への普及は滞っていた。そんな中、1969年にソニー、松下電器産業(現パナソニック)、日本ビクターなど8社は、世界初の家庭用カセット式VTRの統一規格であるU規格を作る。当時はオープンリール方式(テープが巻かれたむき出しのリールを設置するタイプ)が主流だったため注目を集めたが、カラーテレビがようやく一般家庭に普及した時代であったため、広く普及するにはやや時期尚早だったのかもしれない。
だが高度経済成長期を終えた1970年代中盤になると、一般の家庭にも経済的な余裕が生まれる。当時は国内でもU規格の他にVコードやVX方式などいくつかの規格が乱立している状態だったが、ソニーは再び家庭用VTRの普及を狙い各社に規格統一を呼びかけベータマックスを発売する。ベータマックスは1/2インチテープを使ったカセット収納型で、それまでのビデオカセットに比べサイズがひと回りコンパクトであった。この『ベータ』陣営に加わったのが東芝、三洋電機、NEC、ゼネラル、アイワ、パイオニア。画質の向上や、当時としては発売当時はまだ珍しかった特殊再生などの技術を惜しみなく注ぎ込んだVTRだった。
翌年の秋、日本ビクター(現・JVCケンウッド)は新たな規格『VHS』の1号機を発売。その特徴はビデオカセットのサイズがかさばる事を承知の上で基本録画時間120分と長く設定されていた。また量産化が容易な構造でもあった。『VHS』陣営にはシャープ、三菱電機、日立、船井電機の他、最終的には親会社でもあった松下電器産業も参加。こうしてVTRを舞台に、国内外の家電業界はまさに天下分け目の戦いを約10年にわたって繰り広げることとなった。
『VHS』と『ベータ』の戦いの中で有名なエピソードは、当時ビクターの事業部長だった髙野鎮雄が松下電器産業の創業者で、当時相談役であった松下幸之助にVHS陣営に加わって貰うよう直訴した事であろう。松下幸之助は松下・ソニー・ビクターの幹部たちを集めた会議で、両社のデッキを見比べ、「VHSは部品点数も少ないので安く造れるので後発組にも有利」と判断。VHS方式への参加を決めた。当時の家電業界はメーカーが従えた量販店の力が大きく、松下の販売力はVHS陣営を有利に導いた。
松下幸之助が推察した通り、VHSはその後、廉価版を投入しシェアを拡大。また誕生当初より録画時間を120分としていたため、映画やプロ野球などを録画したいユーザーからの支持を集めた。そして最終的に勝負を決定づけたのは、ベータ・VHS双方のソフトを提供してきた映像ソフトメーカーがVHS中心のリリースへとシフトした事。そして1980年代前半頃から登場したビデオレンタル店がVHSをメインに扱った事であろう。
話はやや脱線するが、1970年から1980年代にはビデオ以外にもさまざまな磁気メディアが誕生している。1970年の8インチのものが開発されたのを皮切りに、5.25インチ、3.5インチと登場したフロッピーディスクは、ワープロや8ビット・16ビットパソコンでは随分とお世話になった方も多いだろう。1980年頃になるとハードディスクを内蔵したPCが登場し、その容量は年々拡大。現在は磁気メディアに変わりフラッシュメモリを使ったSSDが主流になりつつあるようだ
ポストVHSの行方
こうしてVHSはVTRの主役の座を勝ち取ることになった。ビデオカメラにおいてはVHSとベータ間での規格争いを反省し、1984年に世界のメーカー127社が集まり8ミリビデオを統一規格とした。以降、VHSは映像メディアの中心を担っていくのだが、徐々にデジタル化の波がその足元へと寄せてくる。その先兵が1981年に登場したレーザーディスクだ。ビデオデッキと違い、データの読み取り方式が非接触式のため記録媒体を劣化させず、また解像度においてもビデオに比べ高画質を誇ったのだが、再生専用であった事やソフトが高価であった事、何よりレンタルが全面禁止であった事から広く普及しなかった。ただ、劇場同様にワイドスクリーンで映画を楽しめたため、映画ファンの間では人気が高かった。ちなみに最後にリリースされたソフトは2006年の川中美幸「金沢の雨」。

PIONEER CLD-70(hiroさんのもちもの)
その後、ポストVTRとして1996年に登場するのがDVDプレイヤーだ。先行して発売されていた光ディスクの第2世代として早くから注目を集めていたが、CDの記憶容量が640~700MBであったのに対し、DVDは片面一層4.7GB、最大で17GBものデータを記憶させる事ができる点が大きなアドバンテージだった。発売されてしばらくは、レンタルビデオ店でも同じタイトルがビデオ版とDVD版で並べられていたが、2000年に発売されたDVDを再生できるゲーム機PS2のヒットをきっかけに、DVDが映像メディアの主流になっていく。こうした映像メディアのデジタル化の波はさまざまな部分に波及した。たとえばVHSで撮りためた膨大なデータをデジタル化するのに特化した商品が登場。またビデオカメラも8ミリからデジタルビデオカメラへと移り変わっていく。
技術が進歩すると、扱わなくてはならないデータの容量は増えていく。取り扱えるデータが増えるとさらに技術は進歩していく。身の回りでそれを実感する機会はここ数年確実に増えてきている。パソコンのメモリ、デジカメの画素数の向上に伴うメモリーカードの容量の向上、データのやり取りをするファイル便やフラッシュメモリーも年々その容量が増してきている。映像の面でもハイビジョン放送がごく一般的になってきた。そうした情報量の多い高精細の映像も録画する事を想定し登場したのがソニーや松下電器産業などが規格を策定した「Blu-ray Disk」と東芝とNECが中心となって提唱した「HD DVD」だ。2002年に登場して以降、両陣営は激しく綱引きを展開したが、2008年に東芝が「HD DVD」事業からの撤退を宣言して次世代DVD争いは終結する。記憶容量の差、それに伴う魅力的な映像コンテンツが「Blu-ray Disk」へと流れた事が決め手であった。もしかすると、そこにはソニーがかつてVHSに敗れた際の教訓が生きていたのかもしれない。
2010年あたりから3Dテレビがちらほらと話題に上ったりしているが、映像の進化はまだまだとどまる事を知らない。3Dブームはその昔にも何度かあったが、それをサポートする機器と技術が揃っている現在であれば、ブームは本物になるかもしれない。そうした未来を見据え、各メーカーではすでに第4世代の光ディスクが研究されている。テラバイト級の記憶容量を持つディスクが登場するのも、そう遠い話でもなさそうだ。

























































黒塗りの系譜



