魔術師は静かに去る
2011年10月5日。世界はひとりの偉大なる魔術師を喪った。スティーブ・ジョブズ。おそらく世界で最も有名な経営者(知名度で肩を並べるのはカーネル・サンダースくらいだろう)。この世を去った当時、すでにアップル社のCEOを退いてから半年以上が経っていたが、彼が再びそのタクトを握る事は二度と無いと知った時、世界は涙を流し、失望し、そして感傷にふけった。もうあの魔法は本当に見られなくなるのだと。
「アップルは明確なビジョンを抱く創造性に富んだ天才を失い、世界は素晴らしい人間を失った。幸運にもスティーブのことを知り、共に働くことができた我々は、親愛なる仲間であり想像力に溢れた指導者を失った。スティーブは彼だけが作ることのできた企業を残し、その魂は永遠にアップルの礎であり続けるだろう」──アップルCEO ティム・クック
「私たち全員にとって非常に悲しい日になった。スティーブが築き上げたスタイルとテクノロジーに匹敵するものは二度と出ないだろう。スティーブはそのカリスマ的な聡明さで人々を触発して不可能を可能にさせた。これからも史上最も偉大なコンピューターの革新者として記憶されるだろう」──Google会長 エリック・シュミット
「世界はビジョンを持った人物を失った。彼が発明したデバイスが世界中の人びとの手に行き渡ったという事実よりほかに、スティーブの成功に対しての大きな賛辞はないかもしれない」──アメリカ合衆国大統領 バラク・オバマ
『21世紀はやっぱりジョブズが世界を変える』。iPod、iTuneストア、iPad、iPhone…ここ10年、矢継ぎ早に革新的な商品やサービスをリリースしてきた彼に、多くの人々がそんな予感を感じていたはずだ。事実、ジョブズが指揮してきたアップル社は過去においてもアっと驚くイノベーションを成し遂げてきたのだから。30代以上の方ならご存知だとは思うが、ジョブズという稀代の魔術師がいなければ、MacやWindowsなどPCを囲む環境も現在とは大きく違った物になっていた事だろう。
奇人とギークの運命の出会い
コンピュータが誕生したのは1940年代。だが、個人が使用するパーソナルコンピュータ、いわゆるパソコンが登場するのは1970年代、8ビットマイクロプロセッサーの普及を待たなくてはならなかった。70年代当時、コンピュータと言えば自動販売機ほどのボディに、映写機のようなリールの付いたメインフレームと呼ばれる政府や企業向けの大型コンピュータを指していた。世界初のパソコンと呼べるのはインテル社のマイクロプロセッサi8080を使い1974年に発売されたアルテア8800だろう。とは言え、このアルテア8800は現在のパソコンとは似てもにつかぬシロモノで、モニターはおろかキーボードもなく、パネルにいくつも取り付けられたスイッチを上げ下げする事で、計算結果をランプで表示する実に簡素な物であった。しかし、組み立てキットで約400ドル、組み立て済みで500ドルのこの原始的な機械は、当時のギーク(技術オタク)たちのハートを掴むのに十分だった。
そんなギークたちの中にふたりのスティーブがいた。一人はいつもニコニコしていて容貌はどこかテディベアを思わせるが、電気回路に関して天才的な頭脳を持つお人好しの青年スティーブ・ウォズニアック。もう一人はベジタリアン(果食主義)で、果物中心の食生活ならば風呂もデオドラントも不要と信じて疑わず、大学の中を裸足でうろつき、カウンターカルチャーに傾倒し、世界のすべての物は「最高」か「クズ」、「ヒーロー」か「まぬけ」しかないと考え、それを口に出してはばからない不遜で不潔、それでありながらどこか人を惹きつける魅力を持ったハンサムな青年、スティーブ・ジョブズ。一見、正反対なふたりだったが、共にイタズラ好きで頭がよく、エレクトロニクスに興味を持っていて、会ったときからウマが合った。ふたりはジョブズがハイスクール時代に知り合い、以来その友情はウォズニアックがヒューレット・パッカード社に、ジョブズがアタリで働くようになっても続いていた。
ウォズニアックはある日、ホームブリュー・コンピュータ・クラブ(地元のコンピュータマニアの集まり)に参加し、このアルテアのデモとマイクロプロセッサーの仕様書を見て、素晴らしいアイデアを思いつく。コンピュータにキーボードを付け、打ち込んだ文字をスクリーンに表示させるシステムを自分でも作れるのではないかと。しかし、アルテアに使われているのと同じインテルのi8080は高すぎる。でもMOSテクノロジーのマイクロプロセッサーなら安く手に入れられる…。彼は作業に取り掛かる。そしてそれか3ヵ月後の1975年6月29日、その目論見は成功する。完成した時、ウォズニアックはこの設計をクラブのみんなにタダで配布するつもりだったが、ジョブズは販売する事を提案。自分たちの会社を興すチャンスだと説得する。そして翌年4月1日、アップルがついに産声を上げる。
ふたりはまず完成したプロトタイプをホームブリュー・コンピュータ・クラブに持ち込みプレゼンテーションを行った。ウォズニアックが仕組みを説明し、ジョブズがその魅力を語るというものだ。だが予想に反して、聴衆の反応はイマイチだった。ギーク、つまりパソコンオタクたちからすると使用していたマイクロプロセッサーが安価なMOSテクノロジーのMOS6502で、性能的に優れていたインテルのi8080を使っていない点が物足りなかったのだ。しかし中にはふたりのコンピュータを1台500ドルで買うという人間もいた。発注の台数は50台。ふたりは早速コンピュータの製作に取り掛かる。作業の舞台となったのはジョブズの実家のガレージ。アップルがガレージから生まれたコンピュータという触れ込みはココからだ。自作コンピュータの小さなメーカーが乱立した当時、『ガレージ生まれ』という出自は特別珍しいものではなかった。ちなみにこれよりずっと後になるが、あのGoogleもガレージを間借りして創業している。
コンピュータ界最初の革命~AppleⅡとMacの誕生~
今やテクノロジー業界の巨人であるアップル社の社名はもちろんジョブズの発案によるものだ。ちなみに創業当初のロゴマークは当時のパートナーの一人であるロン・ウェインによる線画──リンゴの木の下で読書をするニュートンの絵と、その枠に添えられたワーズワーズの詩「彼の心は不思議な思考の海を漂う…ただひとりで」──だった。いかにも「知恵」や「罪悪」といった旧約聖書的な深遠な意味合いを含んでいそうな感じがするが、当のジョブズ本人にはそんな気取った意味を込めたつもりはなかった。電話帳でトップの方に来る、元気が良さそうで親しみやすい、自身が果食主義者だったから、当時のヒッピー生活でしばしば共同農場に足を運びリンゴを栽培していたから…など、思いついた根拠はイージーだった。この創業当時のロゴはAppleⅡが誕生した折に古くからのMacユーザーにはお馴染みの6色のかじりかけのリンゴに替わり、さらにMacG3シリーズの頃から単色のシンプルなリンゴへと変わっていく。
さて、こうして日の目を見たふたりのコンピュータはAppleⅠと名づけられた。「Ⅰ」としたのはこの時すでに、二人の中には次の商品のビジョンがそれぞれあったからだ。キーボード、電源、ソフトウェア、すべてが揃った洗練された商品。拡張性があり、画面の表示はカラーで機械に詳しくなくてもテレビにつなぐ事で誰もが使えるコンピュータ。理想の方向は少しずつ違ったが、共通しているのはそれを実現させるにはAppleⅠで得られた儲けよりもさらに多くの資金が必要ということだった。しかしハタチそこそこの小汚く生意気な若造と人当たりはいいが根っからオタク肌の青年に、ポンと資金を提供してくれるお人好しはなかなか現れなかった。そんなときに知り合ったのが半導体メーカーであるフェアチャイルド・セミコンダクターとインテルで働いた経験を持つ資産家のマイク・マークラだ。ふたりの話を聞いたマークラは25万ドルの資金を提供し、アップルを株式会社にする事を提案する。
──マイク・マークラについての評価はさまざまだ。1980年代後半から1990年代の半ばまでのアップルの混乱の原因は彼にあるという意見もある。確かに取締役の一人としてジョブズをアップルから追い出す事を承認し、その後の度重なるCEOの交代でアップルは一時身売りを考えるまで傾いた。しかし、当時の目まぐるしく移り変わるコンピュータ業界で、シェアを維持し続けるのはズバ抜けたビジョンを持つカリスマが指揮を執らない限りは困難であったろう。それに彼にはその責任以上の功績がある。ジョブズのメンター(後見人)として彼にビジネスの基本を教え、そのビジョンにも大きな影響を与えた点だ。ジョブズのユーザー自身すら気付いていない潜在的なニーズを先取りする能力、買った人たちをわくわくさせるために商品やパッケージのデザインをトコトンまで追求する病的なまでのこだわりは、彼の薫陶によるところが大きい。無論、ジョブズ本人の完璧主義な性分も多分にあるが。
こうして会社の体裁も整い、1977年4月にAppleⅡはついに日の目を見る事になる。定価は1295ドル、日本円で約40万円。他のメーカーに比べて洗練されたプラスチックのボディとキーボード、8本の拡張スロット、当時としては革新的なったスイッチング電源、ディスプレイへのカラー出力。アップルⅡは予想通りヒットした。1977年には2500台、その後も順調に販売台数を伸ばし16年間で600万台を売り上げる。ちなみにアップルは1980年に株式を公開するが、この成功のおかげで法人化した1977年当時5309ドルだった企業価値は、公開時には17億9000万ドルにまで跳ね上がった。750万株持っていたジョブズは一挙に2億5600万ドルの資産を持つ若き(当時まだ25歳)ミリオネアになったのだ。
しかしジョブズは金銭的成功にはあまり興味がなかったようで、さらなるプロジェクトを手掛ける野心に満ち溢れていた。彼の美点の一つは、常に世間をアッと言わせる製品を作ろうというモチベーションだろう。反面、そのモチベーションはしばしば採算を度外視したり、理想を激しく追求するあまり、常に周りの人間との軋轢を生んでいた。1979年、社内にはアップルⅡ以外に3つのプロジェクトがあり、ジョブズは16ビットマイクロプロセッサーを搭載した「Lisa」プロジェクトを指揮していた。しかし、その理想の高さと高慢な物腰が災いしてエンジニアや他の幹部たちとの溝が深まり、ついに彼は「Lisa」プロジェクトから外されてしまう。
社内で冷や飯を食う形になったジョブズだったが、大人しくしていられる訳がない。次に取りかかったのはジェフ・ラスキンが社内で細々と進めていた「Macintosh」プロジェクトだ。マッキントッシュとはラスキンが好きだったリンゴの品種で、本来の綴りは『McIntosh』だったのだが、当時すでに他社で商標として使われていたため「a」を加えて「Macintosh」と名づけた。ラスキンが考えていたのはコンピュータにキーボードとモニターが一体化し、当時はまだどこも実現していなかったビットマップシステムとGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)を使った大衆向けのリーズナブルなマシン。その理想はまさにジョブズが考えていたものとほぼ一致していた。協調できれば最高のパートナーだったのかもしれないが、互いに我の強いふたりが手を取り合うはずもなく、紆余曲折の末、ラスキンはプロジェクトを去ることになる。
GUIとはアプリケーションの起動や基礎的な操作をコマンドの入力ではなく、グラフィックを用いマウスなどのデバイスで操作するユーザーインターフェースのこと。スクリーンを仮想の机に見立て、その上に文書やフォルダを置いたり開いて作業ができるものだ。ビットマップシステムとは画像を格子状の細かいピクセルに分け、それぞれに色や濃淡を指定する事で美しいグラフィックスを表示する技術。2つとも現在のPCに広く一般的に用いられている物だ。まだ「Lisa」プロジェクトに関わっていた頃、ジョブズはラスキンの勧めでゼロックス社のパロアルト研究所を見学した事があった。その時に目にしたこの技術にジョブズは心を大きくときめかせた。この時にゼロックスが開発したマウスにも触れるのだが、それらは後に彼が作る製品に大きな影響を与える事になる。
ジョブズは「Lisa」プロジェクトで盛り込もうとしていたこれらの技術を、Macintoshにも取り入れようと本腰をいれてのめり込んで行く。それまでプロジェクトは少数ではこぢんまりと進められてきたが、取締役としての力をフル活用して人数も予算も大幅に増やし、理想のマシンの開発は急ピッチで進んでいく。思い描いた物や自分が使いたいと思うものを妥協することなく次々に盛り込んでいくジョブズ。GUI、ワンボタンマウス、ゴミ箱アイコン、フロッピーディスクとオートイジェクト機能、デスクトップ上で書類を重ねる技術…。中でも特に革新的だったのは他のコンピュータでは考えられなかった豊富で美しいフォントを使えるようにしたことだ。もう一つは、従来は黒がベースだったスクリーンを白へと変え、スクリーン上で表示されたモノがそのまま同じ状態で印刷されるようにした事だろう。これによりMacintoshはDTPという概念を生み出した。現在のPCに備わっている基本的な機能、そのすべての始まりはMacintoshと言っても過言ではない。そしてその陰にはジョブズの叱咤、激怒、理想に対して妥協をしない激しさがあったのだ。
1984年1月24日、予定よりも約1年ほど遅れながらもMacintoshは発売される。価格は2495ドル、当時日本円で約60万円。ジョブズは一般の人々に手にしてもらえるよう2000ドルを切る価格を主張したが、CEOに押し切られる形で計画よりも500ドル高い価格設定となってしまった。もちろん発売当初は大きな話題を集めたが、残念ながらアップルⅡほどの爆発的ヒットとまではいかなかった。高機能を詰め込んだのにメモリーは128kと非力だったためウンザリするほど遅いコンピュータだった。万人にやさしい機能は慢性的なメモリー不足という課題も残したのだ。しかし翌年にはメモリを強化したMacintosh512k(通称FatMac)を発売するなどその課題も少しずつクリアされていく。
こうした革新的な機能を搭載したMacが爆発的なヒットとならなかったのには理由がある。一つは先行して発売されていたアップルⅡやジョブズ抜きで開発が続けられたLisaと互換性がまったく無かったこと。そして1981年に遅ればせながらパーソナルコンピュータ業界に参入してきたIBMの存在だ。IBMが開発した16ビットコンピュータは目を引くような性能を持っていた訳ではなかったが、ハードウェアの仕様をオープン化する事により多くのメーカーが追従し、互換機や周辺機器を多くリリースする事で急速に市場を拡大していた。Macintoshが発売された時点ですでに世界市場の25%以上をIBMのPCとその互換機が占めており、その勢いはとどまる事を知らなかった。数は力なり。そしてもう一つ、それはマイクロソフトの存在だ。
IBMはPC業界に参入するのにあたり、オペレーションシステムの開発をマイクロソフトに委ねた。マイクロソフトが供給するPC-DOS(後にMS-DOS)は、IBM PCとその互換機との相乗効果で飛躍的に普及していった。その一方でマイクロソフトはAppleとも共同でMac用のアプリケーションの開発にも着手していたのだが、そこで得たGUIのノウハウが少なからずIBM互換機用のオペレーションソフト「ウインドウズ」へと生かされる事となる。そして1983年の暮れにビル・ゲイツはウインドウズの開発を宣言し、1985年11月20日にウインドウズ1.0を発売する。当時の出来映えとしてはMacの滑らかさに遠く及ばなかったが、マイクロソフトは改良に改良を重ね現在に至る。このウインドウズの発売により、GUIを始めとする機能面でのMacの優位性が薄れてしまったのだ。
ちなみにMacが発売された頃のわが国に目を向けてみよう。当時の日本では1981年にNECから発売されたPC-88シリーズを筆頭に8ビット機が全盛で、1983年にはMSX、またゲーム専用機として任天堂ファミリーコンピュータが発売されるなど、主にホビーを中心に独自の発展を遂げていた。PC用のゲームとしては「ハイドライド」や「テグザー」、「イース」などの数々の名作PCゲームが誕生。また多くの同人ゲームソフトも発売された。ただソフトのコピーが横行したことで、ゲームメーカーの中には早くからファミリーコンピュータ用のソフト開発に軸足を移した会社もあった。日本製初の16ビットパソコンであるPC-98シリーズも1982年には登場していたのだが、ホビーメインの8ビット機は長らく市場に君臨。16ビットパソコンは高価だったこともあり、この頃は主にビジネス用として認識されていた。もちろん、Mac発売当時は国内のパソコンユーザーの間でもかなり注目された。その後、キヤノン販売よりMacintosh512kに漢字ROMを搭載したDynaMacも発売されたが、パソコンに不慣れな人でも使いやすいという触れ込みに対して価格が高く、ソフトの数においても国内メーカーのPCに劣っていたため、そのセールスポイントとは裏腹にしばらくはコアなユーザーやDTP関係者の間でしか広がりを見せなかった。
しばしのお別れ…
革命的な商品を世に送り出したジョブズだったが、1984年度の決算は惨めな結果に終わった。LisaとMacintoshの過剰な在庫を抱え、創業以来初めての赤字も計上してしまう。そのためアップルは大幅な人員削減を強いられる事になった。またMacintoshを生み出した多くの優秀なスタッフたちも燃え尽き症候群のようにアップルを離れていく。当時、ジョブズの三顧の礼でCEOを勤めていたジョン・スカリーは、この社内の混乱した状況の責任がジョブズにあると考え、Macintosh部門からジョブズを外すよう取締役会に提案し承認される。蜜月の時代をすごしてきたスカリーにとっては苦渋の決断だったが、ジョブズは逆にスカリーをアップルから追放しようとクーデターを計画。しかし結局、これも取締役会の反対で失敗に終わり、逆にジョブズは会長職以外のすべての権限を取り上げられてしまう。そして1985年9月17日、彼はスカリーに辞表を提出し、新たな会社NeXTを立ち上げる。スティーブ・ジョブズ、この時30歳であった。
ジョブズが去って以降のアップルは、しばらくの間は順調な経営を続けた。パーソナルコンピュータ全体のシェアはPC/AT互換機に奪われ続けていたが、DTPの分野では未だ十分なシェアを獲得していたのだ。またMacintoshも後任のプロジェクトマネージャーであるジャン・ルイ・ガセーの手によって、ジョブズがいた当時のようなドラマチックな変化こそなかったものの、製品は着実に進化を遂げていった。しかしガセーはジョブズと正反対にMacintoshの高価格路線をとった。彼は1990年にアップルを退職するのだが、同年に発売されたウインドウズ3.0の発売以降、こうした高価格路線と相まってアップルのシェアは急激に落ち込んでいき、1996年にはシェアは4%にまで下落。それに歩調を合わせるように株価も急降下していく。ジョブズが去ってから10年、アップルはさまざまな意味でボロボロになっていた。しかし救世主が登場するには、もう少し時を要する事となる。
to be continued…