ガラパゴスの何がわるいっ!?
~ケータイ文化を彩った名機たち~

外来種に淘汰されていくのか

内閣府の2011年度の調べで世帯普及率が92.9%と、いまやもっともポピュラーなコミュニケーションツールとなった携帯電話。デジタルムーバが登場した1993年度時点ではその普及率はわずか3.2%だったのが、J-PHONEがボーダフォン(現ソフトバンクモバイル)へとブランド変更した年でもある10年後の2003年以降、常に90%以上と高い数字を維持している。
その爆発的な普及の陰には、海外の多くの国々で行われていた周波数オークションを介さず、携帯電話事業者に周波数帯を無償で貸与し、その浮いた費用をインフラ整備に充てさせた産業振興策や、1円ケータイに代表される端末の普及のために行われたインセンティブ制度など様々な理由が考えられる。その善悪は別として、日本は世界有数の携帯電話先進国になった。しかしキャリア間の激しい顧客獲得競争に伴い、端末の多機能化・高性能化は進み、通信仕様も世界基準を外れた独自の進化を遂げることとなる。いわゆるガラパゴス化だ。それは国内の携帯電話機メーカーの海外における競争力を奪い、また海外メーカーにとっては日本市場参入の障壁となるなど数々の問題を生み出した反面、日本独自の「ケータイ文化」を育んだ。今回は華やかなガラケー元禄時代に誕生した個性的な名機たちを歴史と共に振り返ってみることにしよう。

携帯電話の夜明け


ムーバ DII(zigsowユーザーのもちもの)

日本における携帯電話の歴史は電電公社(日本電信電話公社)が民営化し、NTT(日本電信電話株式会社)が誕生した年に始まる。1985年9月にNTTがレンタルを開始した「ショルダーホン100型」だ。電電公社はこれに先立つ1979年に都内23区内(80年に大阪エリアで、81年に首都圏エリア)で自動車電話サービスをすでに始めていたのだが、この自動車電話を自動車から離れても利用できるようにした。バッテリー部分をショルダーバックのように抱えて使用。総重量は約3kg、受話器だけでも500g近くとノートPC顔負けの重さだ。しかし、ごついバッテリーの割に8時間かけてフル充電しても連続通話時間は約40分と、電力的にコストパフォーマンスは良くなかった。ちなみにこの「ショルダーホン100型」、保証金は20万円、基本料金は2万6千円。さらに高額な通話料も必要だったため、街中で利用している人を見かけるのは稀であった。携帯電話という言葉が初めて使われたのは87年に登場したハンドヘルド型の電話機「TZ-802型」からだ。バッテリ部分の小型化・省電力化に成功し、総重量は900g、10時間の充電で連続待ち受け時間約6時間、約60分の通話が可能だった。そして89年には640gとさらに小型な「TZ-803型」が登場する。こうして着実に携帯電話の軽量化を進めてきたNTTだったが、同じ年、モトローラ社が出した端末「マイクロタック」に衝撃を受ける。重さは300gと自信を持って送り出した「TZ-803型」の1/2。さらに移動電話事業に新規参入したセルラーグループ(現・auグループ)がこの「マイクロタック」を採用したことも危機感を助長した。NTTはNEC・富士通・松下通信工業(現・パナソニック モバイルコミュニケーションズ)・三菱電機らと共に、モトローラの「マイクロタック」を凌ぐ小型携帯電話機の開発に乗り出す。そして2年後となる91年、その努力が結実。「TZ-804型 ムーバ」シリーズの誕生だ。シリーズ中もっとも最小の製品で220gと、世界最小・最軽量の携帯電話の誕生であった。この研究が礎となり、小型で高性能という日本の携帯端末の歴史が花開く。ちなみに登場当時の「ムーバ」はまだレンタル制で、加入料4万5800円、保証金10万円の他にレンタル料と回線使用料合わせて毎月1万7千円が必要だった。写真の「mova DⅡ」はアナログタイプ後期。重さ180g、連続通話約80分、連続待受時間が約30時間と、ようやくバッテリー残量を気にせずに利用できるようになった。

PDAの進化のゆくえ
~時代を切り開いた栄光なき天才たち~

忘れ去られた携帯情報端末

iPhoneやAndroidなど、巷ではスマートフォン旋風が続いている。統計的には5人に1人がスマートフォンを持っている計算になり、2015年には2人に1人が持つようになるともいわれている。わずか5年ほど前に誕生したスマートフォンの台頭を、急激な成長と見る向きもあるが、その素地は1990年代半ばにはすでにあった。住所録やメモ、スケジューラーなど様々な機能を有し、携帯性に優れた小型機器、PDA(=Personal Digital Assistant、携帯情報端末 )の存在だ。

日本国内においてはi-modeやEZwebなど各キャリアが管理するウェブページが閲覧できる携帯電話、いわゆる『ガラケー』の存在があまりにも大きかったため、その陰に隠れてしまった感はある。だが、根っからのガジェット好きやビジネスマンたちからは、PDAの機能や利便性は高く評価されていた。かつて、携帯電話先進国であった日本の各キャリアやメーカーが、PDAの魅力をなぜ携帯電話にいち早く取り入れる事が出来なかったのかはまた稿を改めるとして、ここではPDAの進化の系譜を追ってみることにしよう。

すべては電卓から始まった


SHARP PC-1245(自由さんのもちもの)

SHARP PC-G811(ふっけんさんのもちもの)

 

1960年代から70年代にかけて、国内メーカーの間では電卓戦争と呼ばれる激しい技術競争が行われた。その間、電卓の小型化や高性能化、低価格化は進み、1980年代に入る頃には、電卓は誰もが気軽に利用できるビジネスマン必携のツールとして広まっていた。当時、国内の電卓市場を二分していたのはCASIOとシャープだったが、両社はコモディティ化した電卓に付加価値を付けようと、それまでに無い機能を備えた製品を開発する。シャープが80年にリリースしたポケットコンピュータPC-1210だ。4ビットCPU、動作クロックは256KHzでメモリは1KB。画面は24文字の1行しか表示できなかったが、計算機機としての機能のほかにBASICを使った簡単なプログラムを作ることができた。このPC-1200シリーズを皮切りに、シャープは数多くのポケコンを世に送り出す。

対するCASIOは同じ年、ゲーム電卓MG-880を発売。形状は通常の薄型電卓で、ゲームの内容は飛んでくる数字のインベーダーを打ち落とすという簡素な物だったが、仕事の合間の退屈しのぎにはピッタリだった。また翌年にはポケットコンピュータFX-702Pと記録用マイクロカセット、放電プリンターがセットになったFX-801Pを発売。メモリは2KB、20桁1行表示。こちらもBASICでプログラムを作成できた。


CASIO FX-702P(zigsowユーザーのもちもの)

そしてCASIOは83年に電卓の発展形、国内初の電子手帳PF-3000を開発する。計算機能の他に電話帳、メモ、スケジュールなどの機能を搭載。革新的な性能は大いに注目を集めた。それに遅れること4年、シャープも漢字表示が可能になった電子手帳PA-7000を発売。メモや住所録など基本的な機能に、別売りのソフトウェアICカードを挿入することで、和英辞書や漢字辞書、占い、表計算など様々な機能を利用することができた。これらの電子手帳はそれまでシステム手帳を愛用していたビジネスマンたちからの支持を集め、その後も続々と後継機が登場し性能も向上していく。まさにPDAの夜明けが来ようとしていた。

むき出しのエンジンが語りかける美学
~4大メーカーを代表するネイキッドたち~

雄々しく逞しい正統派バイク


ゼファー1100(ZRTさんのもちもの)

ネイキッドバイクとは、naked=裸、すなわちカウルを装着していないエンジンやフレームがむき出しになったバイクのこと。70年代以前は暴走族か仮面ライダー(!?)以外、公道を走る国産バイクのほとんどはこのスタイルだった。しかし80年代に入り、ワークスマシンの技術を惜しみなく注いだヤマハTZRやホンダNSRなどいわゆるレーサーレプリカが登場すると、瞬く間に市場を席巻する。流れるようなフォルムと空気抵抗を計算した安定した操作性、そして前傾姿勢で風と一体化する抜群のスピード感。どのマシンも高価ではあったが、若者を中心に人々はこぞってレーサーレプリカに飛びついたのだ。

このレーサーレプリカブームは10年近く続く。ちょうどバブル景気の真っ只中であった当時、世間にはフルカウルでなければバイクにあらず、というような空気がどことなくあった。「どのバイクが速いのか?」「もっとも馬力があるのは?」…バイク乗りたちの一番の関心事はスペックだった。そんなブームの絶頂期、こうした世間の流れに新風、いや西風を吹き込んだのが、1989年に発売されたカワサキ・ゼファーだ。

鋼管フレーム、丸目一灯、空冷4発、廃れて久しい長めのシートとZⅡ(750RS)を思わせるレトロなボディ。発表された当時、400ccで50馬力を切る平凡なスペックに疑問の声が無かった訳ではなかったが、マスコミの予想を裏切りゼファーは爆発的に売れた。バブル時代、イケイケドンドンな風潮の傍らで密かなレトロブームが起きていたのは事実だが、レーサーレプリカのスマートなボディにすっかり慣れていた目には、その男らしく渋いフォルムは実に新鮮に映った。
この予想を上回るヒットに応え、カワサキは90年にはゼファー750を、92年にはゼファー1100をリリース。


ZRX1200S(ogw_sさんのもちもの)

どれもロングランヒットとなるが、排ガス規制の関係で現在はいずれも生産を終了しているため、750ccと1100ccは今でも中古市場では人気の的だ。このゼファーのヒットがきっかけとなり、市場にネイキッドバイクという概念が出来上がる。1989年はネイキッド元年ともいえるだろう。バイクは速さだけではなく、好みのスタイルで選ぶ時代になっていく。

カワサキではその後、ゼファーとは異なるコンセプトのネイキッドも発売する。パワーとスポーツ性も重視したZRXシリーズだ。ゼファーの空冷4気筒に対して、こちらはZZ-R400をベースにした水冷DOHC4バルブインラインエンジン。パワフルで軽快、より走りをイメージした造りになっている。94年に400ccのZRXがデビューし97年にはZRX1100、2001年にはZRX1200Rが登場した。ジグソーユーザーのもちものはZRX1200Rにハーフカウルを装備し、ヘッドライトが角型1灯から2灯式になったスポーツツアラー仕様。長旅の足には最適だ。

時代をリードしてきたAppleの作品たち Vol.3
──スティーブ・ジョブズとその魔法──

デジタル革命の10年が始まる

1990年代から2000年代中盤にかけて、我々の生活はデジタル化への過渡期を迎える。デジタルビデオカメラやデジタルカメラが登場し、人々の生活は劇的に変化。またインターネットの普及に伴い、アメリカや日本など各国で多くのIT企業が立ち上がり、IT業界はバブルを思わせる好況に包まれていた。その一方でネット上には不正にアップロードされた動画や音楽が溢れ返り、それを享受する人々がいる反面、ネットと著作権の共存という新たな社会問題にもなっていた。


Apple iPod shuffle 1GB(JUN8731さんのもちもの)

1996年の復帰と共にアップルを華やかな復活へと導いたジョブズ。「iMac」と「iBook」で身近な家電としてコンピュータという概念を生み出した彼は、様々なデジタル機器で取り込んだデータを管理するプラットホームとしてのコンピュータの重要性に気付く。普通の人々がデジタルカメラやビデオで撮った画像をPCで加工・保存し、気軽に自分で作った楽曲をネットにアップロードしたり、楽曲をダウンロードしてプレイリストを作ったりする未来の社会。いわゆるデジタルハブ構想だ。こうした環境を整えるため、まずはアプリケーションソフトの制作に取り掛かる。当時、このような用途のソフトがまったく無かったわけではないが、ジョブズがこだわったのは『ごく普通の人』が扱える事だった。1999年には動画の編集ができる「iMovie」を、2001年には音楽と動画の再生・管理ソフト「iTunes」を、そして2002年には写真編集・管理ソフトである「iPhoto」、2004年には簡単にPC上で音楽制作ができる「GarageBand」と立て続けにリリース。中でも力を注いだのは「iTunes」だった。

スローガンは「リップ(読み込む)」「ミックス(編集して)」「バーン(CDに焼く)」。操作は簡単で、誰もが簡単に自宅でアルバム編集ができるようになった。そして「iTunes」をリリースした同じ年の10月に、アップルのそして世界の歴史を塗り替えたデジタル音楽プレイヤー「iPod」を発売する。驚くほどにシンプルでコンパクト。5GBの超小型ハードドライブを搭載し約1000曲の保存が可能。余計なボタンはなく、特徴的なホイールで簡単に聞きたい曲を選曲することができる。そして画期的だったのは「iTunes」を使えば、PC上に取り込んだデータを簡単に同期させられることだ。暇つぶしにぴったりな簡単なゲームも内蔵。当時、ポータブル音楽プレイヤーはSONYのウォークマンの独壇場だったが、「iPod」は発売されると同時に爆発的なヒットを記録する。「ポケットに1000曲を」。発売当時のこのキャッチフレーズは、来るべき未来の姿を予感させた。


Apple iPod nano 4GB(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

Apple iPod touch 16GB (zigsowユーザーのみ閲覧可能)

となりにいつもテディベア

子供も大人も大好きなぬいぐるみ


テディベア(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

小さい頃、大好きなぬいぐるみに名前を付けた経験、ありませんか? さみしい時は話し相手になってくれ、冬の夜はベッドで添い寝してくれた大切なともだち。ふわふわで温かくって、その優しい肌触りを指に感じるだけで、なんとなく心落ち着いたものです。

そんなぬいぐるみたちの代表選手といえば、やはりテディベア。ずんぐりした体と愛らしい目をした熊のお人形。さまざまなメーカーから発売されたものから手作りのものまで、これほど世界で愛されているぬいぐるみは他にはないだろう。その名前は、アメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルトに由来する。1902年の秋、元軍人で冒険家であった彼は趣味の狩猟に出かけた際に一匹の傷を負った熊(老熊とも小熊ともいわれている)を追い詰めるが、「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神にもとる」として撃たなかった。彼の高潔な行動をワシントンポストがクリフォード・ベリーマンの風刺漫画と共に掲載したのをきっかけに、彼の通称である『テディ』を冠した熊のぬいぐるみが人気を博すことになる。そんな誕生の経緯もあってか「テディベア」の名は商標として独占されておらず、現在でも熊のぬいぐるみ全般の愛称として親しまれている。

時代をリードしてきたAppleの“作品”たち Vol.2
──スティーブ・ジョブズとその魔法──

NeXTとピクサー~遠回りの10年間~

スティーブ・ジョブズを評して『人々が望む物、望むであろう物を生み出す天才』と呼ぶ声がある。それはおそらく正解なのだが、その原動力は“世間がアっと驚くモノを作ってやろう”というシンプルなモノ。凝ったイタズラで周りをビックリさせるのが好きだったという少年時代の延長線上に、彼が世に送り出してきた製品がある。そして、アっと言わせるためには妥協しない生来の完璧主義がたたり、彼は1985年に半ば追い出されるカタチでアップルを去る事となる。もちろん、彼がいない間の10年もアップルはさまざまな製品を世に送り出すのだが、それらを辿る前に、まずはアップルと離れていた間のジョブズを追ってみる事にしよう。

アップルを辞めたジョブズは同じ年、Macintoshチームにいたスーザン・ケア(Macintoshのアイコンや書体の大半を作ったデザイナー)やバド・トリブル(後のアップル・ソフトウェア・テクノロジー担当副社長)らMacintoshチームにいた5人の技術者と共にコンピュータ会社NeXTを立ち上げる。目指すところは、ハイスペックなRAMに高精細なディスプレイ、そしてパワフルな演算能力を持ちながらも安価なそれまでにない高等教育向けのワークステーション。このアイデアはノーベル化学賞を受賞したポール・バーグ博士と会食した際、教育現場が実験をシュミレーションできるスペックを持ち、低予算で購入できるコンピュータを欲している事を知り生まれた。しかしそれはアップル社から顧客を奪う事を意味していた。


NEXTSTEP(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

完成したコンピュータはボディにマグネシウム合金を使い、一辺30cmのマットブラックで統一された正立方体という独創的なデザイン。RAMは64MB、256MBの光磁気ドライブを搭載。ジョブズのこだわりで当時一般的だったFDドライブは付けられなかった。また最先端をいく技術を盛り込んだ独自のOS「NeXT STEP」のほか、電子ブックのはしりであるオックスフォード版シェイクスピア全集や辞書がインストールされていた。特に「NeXT STEP」は後のMacやウインドウズOSに与えた影響も大きく、どのシステムでも共通にできるドラッグ&ドロップやウインドウドラッグ、作業状況の可視化など現在のPCではごく当たり前となっているGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)を盛り込んでいた。こうして1988年10月にお披露目された「NeXT cube」はおおいに注目されたが、商業的には成功を収めることはできなかった。ビル・ゲイツ率いるマイクロソフトを始めとしたソフト会社がアプリケーションの開発に二の足を踏んだこと、高機能のOSを快適に動かすだけの能力がCPUに欠けていた事、そして発表当時の価格が6500ドルと予定よりも高くなってしまったことなど理由はさまざまだ。

ジョブズが「NeXT」と同時に手掛けた事業に「ピクサー」がある。1985年当時、映画監督のジョージ・ルーカスは、「ルーカス・フィルム」のコンピュータ部門を売却しようと考えていたが、買い手はなかなか見つからなかった。そのコンピュータ部門を指揮していたエド・キャットムルは仲間と共に自ら買い取って会社を立ち上げようと投資家を探すのだが、これも難航していた。そんな時に手を挙げたのがジョブズだった。彼はルーカスから500万ドルで会社を買い取り、1986年1月に新会社「ピクサー」を立ち上げて会長に納まる。

「ピクサー」の中には2つの部門があった。メインはデジタル化した映像にコンピュータグラフィックスによる加工を加えるハイスペックなマシンとソフトを開発する部門。顧客は主に映像関係や政府機関などであったが、ジョブズは『ごくフツーの人々が自宅のPCで簡単に3DのCGを作るようになったらすごい事になる』と考え、当時作っていたレンダリングソフト「レンダーマン」を大衆向けにも発売させるがこれはヒットはしなかった。一般の消費者は「レンダーマン」ほど機能が優れていなくても、簡単に使えるアドビ製品を選んだのだ。


TOYSTORY3(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

もう1つの部門はコンピュータアニメーター部門。ここは後に「ピクサー」の名を一躍有名にするアニメーターのジョン・ラセターがいた。アートが好きなジョブズにとって、ここはお気に入りの部門だった。もともとは主力商品であるソフトやハードの性能を示すためにCGアニメーションを作る部署だったが、ラセターの作る短編アニメに感銘を受けたジョブズは、採算が取れる見込みがあった訳ではなかったがショートフィルムを作り続けるようラセターに指示する。それが実り、1988年にはラセターが作った「ティン・トイ」がアカデミー賞短編アニメーション賞を獲得する。

そんな成功も空しく、「ピクサー」も「NeXT」も苦境が続いた。「ピクサー」だけでも実に5000万ドル以上の個人財産をつぎ込んでいたのだ。転機が訪れたのは1995年にディズニーと協力して製作した「トイ・ストーリー」のヒットだ。もちろん監督はジョン・ラセター。ジョブズも製作総指揮に名を連ねている。最終的に「トイ・ストーリー」は世界中で3億6000万ドル以上の興行収入をあげる大ヒット作品となった。そして映画公開の一週間後、「ピクサー」の株式も公開され株価は急騰。手持ちの株の価値は12億ドル以上に膨らんだ。1985年に始まったジョブズにとっての冴えない10年は終わりを告げたのだ。

ファミリーコンピュータ・ブラザーズ
──世代を越えて愛される名作ゲーム機──

1983年のファミリーコンピュータ


初代ファミリーコンピュータ
(サトシさんのもちもの)

ゼルダの伝説(Ikkeさんのもちもの)

サッカーも野球も、プラモデルもクワガタ採りも、みんなみんな好きだった1980年代の少年たち。だけど、クラスでの話題の中心はいつもファミコンだった。お互いのゲームを貸しあっこし、最新のゲームを買ったコの家にはみんなで押しかけ、欲しいゲームを買うためにコツコツとお小遣いを貯めて、クリスマスが近づけばオモチャ屋さんの広告をウットリと眺めていたあの日。日本中の、いや世界中の子供たちがファミコンに熱狂していた。

任天堂からファミリーコンピュータが発売されたのは1983(昭和58)年7月15日。希望小売価格は14,800円、型番はHVC-001。発売と共にアーケード版ですでに人気を博していた「ポパイ」「ドンキーコング」「ドンキーコングJr.」の3本のゲームソフトがリリースされた。本体は電源スイッチとリセットボタン、ROMカセットの差込み口という簡素な造りで植え込み式のコントロ-ラが2つ。コントローラには十字ボタンとA・B二つのボタンのほか、コントローラⅠにはゲーム内容の選択やプレイ中にポーズをかけるのに使うスタートボタンとセレクトボタンが、コントローラⅡにはマイクが付けられていた。このマイクはそれほど活躍の場を与えられた訳ではなかったが、「バンゲリングベイ」や「ゼルダの伝説」など一部のゲームには、マイクを使った裏技や重要な謎解きが盛り込まれた。また最初期のファミコンのコントローラのA・Bボタンは四角型で指になじむシリコンゴムが用いられたが、使い込む事でボタンが欠けたり押したまま戻ってこないなどの不具合が生じたため、後にプラスチック製の丸ボタンへと改良される。

スクリーンの中の名車たち
──車とシネマの素敵な関係──

ヒーローの傍らにはいつも名車がいた

胸のすくようなアクション、心温まるヒューマンドラマ、ため息つくような恋の駆け引き…。僕らの胸を躍らせてきた数々の映画。スクリーンの中の主人公の傍らには、いつもその時代を彩る名車がいた。20世紀の初頭に誕生した自動車は、ほぼ同時期に登場した映画にとって最も付き合いの長いパートナーだ。またカットの端に何気なく映り込んだ車一台で、その時代背景までもが鮮やかによみがえる。僕らの生活にしっかりと根付いた自動車は、単にヒーローの窮地を救う相棒という役回りだけでなく、物語の時代を裏付ける重要なキーマンでもあるのだ。今回はそうした映画の中の名車たちにスポットを当ててみよう。

物語の中の味のある名脇役たち


HONDA CR-X(zigsowユーザのみ閲覧可能)

ハリウッドの絶頂期、アメリカ映画の主人公はマッチョと車と拳銃だった。絶望的なピンチの数々を乗り越え、超人的な活躍で悪の親玉をなぎ倒す。その姿はまさに世界の警察官、当時のアメリカを象徴するものだった。そんなマッチョの代表格といえば、やはりシュワちゃんことアーノルド・シュワルツェネッガーだろう。80年代から90年代にかけてターミネーター、コマンドーなど年一回ペースで大作アクションに出演してきた彼は、ジェームズ・キャメロン監督とタッグを組んだ1994年公開の映画「トゥルーライズ」で、大統領直属の秘密機関「オメガセクター」の凄腕スパイ・ハリーを演じる。彼はジェイミー・リー・カーティス扮する美しい妻ヘレンが浮気しているのではと思い悩み、職権を乱用して彼女を尾行するのだが…。

 

 この尾行シーンで妻ヘレンが乗っていたのがホンダCR-X。CR-Xは1983年から1997年まで3世代発売されたが、映画の中に登場するのは初代のバラッドスポーツCR-X(アメリカではCIVIC CRXとして発売された)。ジグソーユーザーのもちものである「SiR」は1.6L DOHC VTECエンジンを搭載した2代目の後期の型だ。CR-Xはコンパクトで燃費が良く滅法速いという、まさに当時の日本車を代表する一台。80年代末から90年代は、日米の貿易摩擦は激しさを増し、自動車を中心にジャパンパッシングの模様が連日TVで流されていたものだが、それとは裏腹にCR-Xを始めとする日本車がアメリカ人の生活にすっかり溶け込んでいた様子がうかがい知れる。

時代をリードしてきたAppleの“作品”たち Vol.1
──スティ-ブ・ジョブズとその魔法──

魔術師は静かに去る

2011年10月5日。世界はひとりの偉大なる魔術師を喪った。スティーブ・ジョブズ。おそらく世界で最も有名な経営者(知名度で肩を並べるのはカーネル・サンダースくらいだろう)。この世を去った当時、すでにアップル社のCEOを退いてから半年以上が経っていたが、彼が再びそのタクトを握る事は二度と無いと知った時、世界は涙を流し、失望し、そして感傷にふけった。もうあの魔法は本当に見られなくなるのだと。

「アップルは明確なビジョンを抱く創造性に富んだ天才を失い、世界は素晴らしい人間を失った。幸運にもスティーブのことを知り、共に働くことができた我々は、親愛なる仲間であり想像力に溢れた指導者を失った。スティーブは彼だけが作ることのできた企業を残し、その魂は永遠にアップルの礎であり続けるだろう」──アップルCEO ティム・クック

「私たち全員にとって非常に悲しい日になった。スティーブが築き上げたスタイルとテクノロジーに匹敵するものは二度と出ないだろう。スティーブはそのカリスマ的な聡明さで人々を触発して不可能を可能にさせた。これからも史上最も偉大なコンピューターの革新者として記憶されるだろう」──Google会長 エリック・シュミット

「世界はビジョンを持った人物を失った。彼が発明したデバイスが世界中の人びとの手に行き渡ったという事実よりほかに、スティーブの成功に対しての大きな賛辞はないかもしれない」──アメリカ合衆国大統領 バラク・オバマ

『21世紀はやっぱりジョブズが世界を変える』。iPod、iTuneストア、iPad、iPhone…ここ10年、矢継ぎ早に革新的な商品やサービスをリリースしてきた彼に、多くの人々がそんな予感を感じていたはずだ。事実、ジョブズが指揮してきたアップル社は過去においてもアっと驚くイノベーションを成し遂げてきたのだから。30代以上の方ならご存知だとは思うが、ジョブズという稀代の魔術師がいなければ、MacやWindowsなどPCを囲む環境も現在とは大きく違った物になっていた事だろう。

 

奇人とギークの運命の出会い

コンピュータが誕生したのは1940年代。だが、個人が使用するパーソナルコンピュータ、いわゆるパソコンが登場するのは1970年代、8ビットマイクロプロセッサーの普及を待たなくてはならなかった。70年代当時、コンピュータと言えば自動販売機ほどのボディに、映写機のようなリールの付いたメインフレームと呼ばれる政府や企業向けの大型コンピュータを指していた。世界初のパソコンと呼べるのはインテル社のマイクロプロセッサi8080を使い1974年に発売されたアルテア8800だろう。とは言え、このアルテア8800は現在のパソコンとは似てもにつかぬシロモノで、モニターはおろかキーボードもなく、パネルにいくつも取り付けられたスイッチを上げ下げする事で、計算結果をランプで表示する実に簡素な物であった。しかし、組み立てキットで約400ドル、組み立て済みで500ドルのこの原始的な機械は、当時のギーク(技術オタク)たちのハートを掴むのに十分だった。

そんなギークたちの中にふたりのスティーブがいた。一人はいつもニコニコしていて容貌はどこかテディベアを思わせるが、電気回路に関して天才的な頭脳を持つお人好しの青年スティーブ・ウォズニアック。もう一人はベジタリアン(果食主義)で、果物中心の食生活ならば風呂もデオドラントも不要と信じて疑わず、大学の中を裸足でうろつき、カウンターカルチャーに傾倒し、世界のすべての物は「最高」か「クズ」、「ヒーロー」か「まぬけ」しかないと考え、それを口に出してはばからない不遜で不潔、それでありながらどこか人を惹きつける魅力を持ったハンサムな青年、スティーブ・ジョブズ。一見、正反対なふたりだったが、共にイタズラ好きで頭がよく、エレクトロニクスに興味を持っていて、会ったときからウマが合った。ふたりはジョブズがハイスクール時代に知り合い、以来その友情はウォズニアックがヒューレット・パッカード社に、ジョブズがアタリで働くようになっても続いていた。

ウォズニアックはある日、ホームブリュー・コンピュータ・クラブ(地元のコンピュータマニアの集まり)に参加し、このアルテアのデモとマイクロプロセッサーの仕様書を見て、素晴らしいアイデアを思いつく。コンピュータにキーボードを付け、打ち込んだ文字をスクリーンに表示させるシステムを自分でも作れるのではないかと。しかし、アルテアに使われているのと同じインテルのi8080は高すぎる。でもMOSテクノロジーのマイクロプロセッサーなら安く手に入れられる…。彼は作業に取り掛かる。そしてそれか3ヵ月後の1975年6月29日、その目論見は成功する。完成した時、ウォズニアックはこの設計をクラブのみんなにタダで配布するつもりだったが、ジョブズは販売する事を提案。自分たちの会社を興すチャンスだと説得する。そして翌年4月1日、アップルがついに産声を上げる。

ふたりはまず完成したプロトタイプをホームブリュー・コンピュータ・クラブに持ち込みプレゼンテーションを行った。ウォズニアックが仕組みを説明し、ジョブズがその魅力を語るというものだ。だが予想に反して、聴衆の反応はイマイチだった。ギーク、つまりパソコンオタクたちからすると使用していたマイクロプロセッサーが安価なMOSテクノロジーのMOS6502で、性能的に優れていたインテルのi8080を使っていない点が物足りなかったのだ。しかし中にはふたりのコンピュータを1台500ドルで買うという人間もいた。発注の台数は50台。ふたりは早速コンピュータの製作に取り掛かる。作業の舞台となったのはジョブズの実家のガレージ。アップルがガレージから生まれたコンピュータという触れ込みはココからだ。自作コンピュータの小さなメーカーが乱立した当時、『ガレージ生まれ』という出自は特別珍しいものではなかった。ちなみにこれよりずっと後になるが、あのGoogleもガレージを間借りして創業している。

 

コンピュータ界最初の革命~AppleⅡとMacの誕生~


Apple Sticker(zigsowユーザのみ閲覧可能)

今やテクノロジー業界の巨人であるアップル社の社名はもちろんジョブズの発案によるものだ。ちなみに創業当初のロゴマークは当時のパートナーの一人であるロン・ウェインによる線画──リンゴの木の下で読書をするニュートンの絵と、その枠に添えられたワーズワーズの詩「彼の心は不思議な思考の海を漂う…ただひとりで」──だった。いかにも「知恵」や「罪悪」といった旧約聖書的な深遠な意味合いを含んでいそうな感じがするが、当のジョブズ本人にはそんな気取った意味を込めたつもりはなかった。電話帳でトップの方に来る、元気が良さそうで親しみやすい、自身が果食主義者だったから、当時のヒッピー生活でしばしば共同農場に足を運びリンゴを栽培していたから…など、思いついた根拠はイージーだった。この創業当時のロゴはAppleⅡが誕生した折に古くからのMacユーザーにはお馴染みの6色のかじりかけのリンゴに替わり、さらにMacG3シリーズの頃から単色のシンプルなリンゴへと変わっていく。

さて、こうして日の目を見たふたりのコンピュータはAppleⅠと名づけられた。「Ⅰ」としたのはこの時すでに、二人の中には次の商品のビジョンがそれぞれあったからだ。キーボード、電源、ソフトウェア、すべてが揃った洗練された商品。拡張性があり、画面の表示はカラーで機械に詳しくなくてもテレビにつなぐ事で誰もが使えるコンピュータ。理想の方向は少しずつ違ったが、共通しているのはそれを実現させるにはAppleⅠで得られた儲けよりもさらに多くの資金が必要ということだった。しかしハタチそこそこの小汚く生意気な若造と人当たりはいいが根っからオタク肌の青年に、ポンと資金を提供してくれるお人好しはなかなか現れなかった。そんなときに知り合ったのが半導体メーカーであるフェアチャイルド・セミコンダクターとインテルで働いた経験を持つ資産家のマイク・マークラだ。ふたりの話を聞いたマークラは25万ドルの資金を提供し、アップルを株式会社にする事を提案する。

──マイク・マークラについての評価はさまざまだ。1980年代後半から1990年代の半ばまでのアップルの混乱の原因は彼にあるという意見もある。確かに取締役の一人としてジョブズをアップルから追い出す事を承認し、その後の度重なるCEOの交代でアップルは一時身売りを考えるまで傾いた。しかし、当時の目まぐるしく移り変わるコンピュータ業界で、シェアを維持し続けるのはズバ抜けたビジョンを持つカリスマが指揮を執らない限りは困難であったろう。それに彼にはその責任以上の功績がある。ジョブズのメンター(後見人)として彼にビジネスの基本を教え、そのビジョンにも大きな影響を与えた点だ。ジョブズのユーザー自身すら気付いていない潜在的なニーズを先取りする能力、買った人たちをわくわくさせるために商品やパッケージのデザインをトコトンまで追求する病的なまでのこだわりは、彼の薫陶によるところが大きい。無論、ジョブズ本人の完璧主義な性分も多分にあるが。

こうして会社の体裁も整い、1977年4月にAppleⅡはついに日の目を見る事になる。定価は1295ドル、日本円で約40万円。他のメーカーに比べて洗練されたプラスチックのボディとキーボード、8本の拡張スロット、当時としては革新的なったスイッチング電源、ディスプレイへのカラー出力。アップルⅡは予想通りヒットした。1977年には2500台、その後も順調に販売台数を伸ばし16年間で600万台を売り上げる。ちなみにアップルは1980年に株式を公開するが、この成功のおかげで法人化した1977年当時5309ドルだった企業価値は、公開時には17億9000万ドルにまで跳ね上がった。750万株持っていたジョブズは一挙に2億5600万ドルの資産を持つ若き(当時まだ25歳)ミリオネアになったのだ。

しかしジョブズは金銭的成功にはあまり興味がなかったようで、さらなるプロジェクトを手掛ける野心に満ち溢れていた。彼の美点の一つは、常に世間をアッと言わせる製品を作ろうというモチベーションだろう。反面、そのモチベーションはしばしば採算を度外視したり、理想を激しく追求するあまり、常に周りの人間との軋轢を生んでいた。1979年、社内にはアップルⅡ以外に3つのプロジェクトがあり、ジョブズは16ビットマイクロプロセッサーを搭載した「Lisa」プロジェクトを指揮していた。しかし、その理想の高さと高慢な物腰が災いしてエンジニアや他の幹部たちとの溝が深まり、ついに彼は「Lisa」プロジェクトから外されてしまう。


Macintosh512k(zigsowユーザのみ閲覧可能)

 

社内で冷や飯を食う形になったジョブズだったが、大人しくしていられる訳がない。次に取りかかったのはジェフ・ラスキンが社内で細々と進めていた「Macintosh」プロジェクトだ。マッキントッシュとはラスキンが好きだったリンゴの品種で、本来の綴りは『McIntosh』だったのだが、当時すでに他社で商標として使われていたため「a」を加えて「Macintosh」と名づけた。ラスキンが考えていたのはコンピュータにキーボードとモニターが一体化し、当時はまだどこも実現していなかったビットマップシステムとGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)を使った大衆向けのリーズナブルなマシン。その理想はまさにジョブズが考えていたものとほぼ一致していた。協調できれば最高のパートナーだったのかもしれないが、互いに我の強いふたりが手を取り合うはずもなく、紆余曲折の末、ラスキンはプロジェクトを去ることになる。

GUIとはアプリケーションの起動や基礎的な操作をコマンドの入力ではなく、グラフィックを用いマウスなどのデバイスで操作するユーザーインターフェースのこと。スクリーンを仮想の机に見立て、その上に文書やフォルダを置いたり開いて作業ができるものだ。ビットマップシステムとは画像を格子状の細かいピクセルに分け、それぞれに色や濃淡を指定する事で美しいグラフィックスを表示する技術。2つとも現在のPCに広く一般的に用いられている物だ。まだ「Lisa」プロジェクトに関わっていた頃、ジョブズはラスキンの勧めでゼロックス社のパロアルト研究所を見学した事があった。その時に目にしたこの技術にジョブズは心を大きくときめかせた。この時にゼロックスが開発したマウスにも触れるのだが、それらは後に彼が作る製品に大きな影響を与える事になる。

ジョブズは「Lisa」プロジェクトで盛り込もうとしていたこれらの技術を、Macintoshにも取り入れようと本腰をいれてのめり込んで行く。それまでプロジェクトは少数ではこぢんまりと進められてきたが、取締役としての力をフル活用して人数も予算も大幅に増やし、理想のマシンの開発は急ピッチで進んでいく。思い描いた物や自分が使いたいと思うものを妥協することなく次々に盛り込んでいくジョブズ。GUI、ワンボタンマウス、ゴミ箱アイコン、フロッピーディスクとオートイジェクト機能、デスクトップ上で書類を重ねる技術…。中でも特に革新的だったのは他のコンピュータでは考えられなかった豊富で美しいフォントを使えるようにしたことだ。もう一つは、従来は黒がベースだったスクリーンを白へと変え、スクリーン上で表示されたモノがそのまま同じ状態で印刷されるようにした事だろう。これによりMacintoshはDTPという概念を生み出した。現在のPCに備わっている基本的な機能、そのすべての始まりはMacintoshと言っても過言ではない。そしてその陰にはジョブズの叱咤、激怒、理想に対して妥協をしない激しさがあったのだ。

1984年1月24日、予定よりも約1年ほど遅れながらもMacintoshは発売される。価格は2495ドル、当時日本円で約60万円。ジョブズは一般の人々に手にしてもらえるよう2000ドルを切る価格を主張したが、CEOに押し切られる形で計画よりも500ドル高い価格設定となってしまった。もちろん発売当初は大きな話題を集めたが、残念ながらアップルⅡほどの爆発的ヒットとまではいかなかった。高機能を詰め込んだのにメモリーは128kと非力だったためウンザリするほど遅いコンピュータだった。万人にやさしい機能は慢性的なメモリー不足という課題も残したのだ。しかし翌年にはメモリを強化したMacintosh512k(通称FatMac)を発売するなどその課題も少しずつクリアされていく。

こうした革新的な機能を搭載したMacが爆発的なヒットとならなかったのには理由がある。一つは先行して発売されていたアップルⅡやジョブズ抜きで開発が続けられたLisaと互換性がまったく無かったこと。そして1981年に遅ればせながらパーソナルコンピュータ業界に参入してきたIBMの存在だ。IBMが開発した16ビットコンピュータは目を引くような性能を持っていた訳ではなかったが、ハードウェアの仕様をオープン化する事により多くのメーカーが追従し、互換機や周辺機器を多くリリースする事で急速に市場を拡大していた。Macintoshが発売された時点ですでに世界市場の25%以上をIBMのPCとその互換機が占めており、その勢いはとどまる事を知らなかった。数は力なり。そしてもう一つ、それはマイクロソフトの存在だ。

IBMはPC業界に参入するのにあたり、オペレーションシステムの開発をマイクロソフトに委ねた。マイクロソフトが供給するPC-DOS(後にMS-DOS)は、IBM PCとその互換機との相乗効果で飛躍的に普及していった。その一方でマイクロソフトはAppleとも共同でMac用のアプリケーションの開発にも着手していたのだが、そこで得たGUIのノウハウが少なからずIBM互換機用のオペレーションソフト「ウインドウズ」へと生かされる事となる。そして1983年の暮れにビル・ゲイツはウインドウズの開発を宣言し、1985年11月20日にウインドウズ1.0を発売する。当時の出来映えとしてはMacの滑らかさに遠く及ばなかったが、マイクロソフトは改良に改良を重ね現在に至る。このウインドウズの発売により、GUIを始めとする機能面でのMacの優位性が薄れてしまったのだ。


NEC PC-9801 RA(cybercatさんのもちもの)

Family Computer(n-eさんのもちもの)

ちなみにMacが発売された頃のわが国に目を向けてみよう。当時の日本では1981年にNECから発売されたPC-88シリーズを筆頭に8ビット機が全盛で、1983年にはMSX、またゲーム専用機として任天堂ファミリーコンピュータが発売されるなど、主にホビーを中心に独自の発展を遂げていた。PC用のゲームとしては「ハイドライド」や「テグザー」、「イース」などの数々の名作PCゲームが誕生。また多くの同人ゲームソフトも発売された。ただソフトのコピーが横行したことで、ゲームメーカーの中には早くからファミリーコンピュータ用のソフト開発に軸足を移した会社もあった。日本製初の16ビットパソコンであるPC-98シリーズも1982年には登場していたのだが、ホビーメインの8ビット機は長らく市場に君臨。16ビットパソコンは高価だったこともあり、この頃は主にビジネス用として認識されていた。もちろん、Mac発売当時は国内のパソコンユーザーの間でもかなり注目された。その後、キヤノン販売よりMacintosh512kに漢字ROMを搭載したDynaMacも発売されたが、パソコンに不慣れな人でも使いやすいという触れ込みに対して価格が高く、ソフトの数においても国内メーカーのPCに劣っていたため、そのセールスポイントとは裏腹にしばらくはコアなユーザーやDTP関係者の間でしか広がりを見せなかった。

 

しばしのお別れ…

革命的な商品を世に送り出したジョブズだったが、1984年度の決算は惨めな結果に終わった。LisaとMacintoshの過剰な在庫を抱え、創業以来初めての赤字も計上してしまう。そのためアップルは大幅な人員削減を強いられる事になった。またMacintoshを生み出した多くの優秀なスタッフたちも燃え尽き症候群のようにアップルを離れていく。当時、ジョブズの三顧の礼でCEOを勤めていたジョン・スカリーは、この社内の混乱した状況の責任がジョブズにあると考え、Macintosh部門からジョブズを外すよう取締役会に提案し承認される。蜜月の時代をすごしてきたスカリーにとっては苦渋の決断だったが、ジョブズは逆にスカリーをアップルから追放しようとクーデターを計画。しかし結局、これも取締役会の反対で失敗に終わり、逆にジョブズは会長職以外のすべての権限を取り上げられてしまう。そして1985年9月17日、彼はスカリーに辞表を提出し、新たな会社NeXTを立ち上げる。スティーブ・ジョブズ、この時30歳であった。

 


Macintosh SE(お富さんのもちもの)

Macintosh SE30(お富さんのもちもの)

 

ジョブズが去って以降のアップルは、しばらくの間は順調な経営を続けた。パーソナルコンピュータ全体のシェアはPC/AT互換機に奪われ続けていたが、DTPの分野では未だ十分なシェアを獲得していたのだ。またMacintoshも後任のプロジェクトマネージャーであるジャン・ルイ・ガセーの手によって、ジョブズがいた当時のようなドラマチックな変化こそなかったものの、製品は着実に進化を遂げていった。しかしガセーはジョブズと正反対にMacintoshの高価格路線をとった。彼は1990年にアップルを退職するのだが、同年に発売されたウインドウズ3.0の発売以降、こうした高価格路線と相まってアップルのシェアは急激に落ち込んでいき、1996年にはシェアは4%にまで下落。それに歩調を合わせるように株価も急降下していく。ジョブズが去ってから10年、アップルはさまざまな意味でボロボロになっていた。しかし救世主が登場するには、もう少し時を要する事となる。

to be continued…

贅沢な一時間 ─芳醇な葉巻の世界─

全ては儚い一時間のために

「嗜好品」というものは、本当に手がかかる。こだわるほどに高価になり、管理が難しくなり、楽しむまでの手順も煩雑になる。だが、一度その魅力を知ってしまうと、その煩雑な手順までもが楽しくなってしまう。まったく、趣味人というのは一筋縄ではいかない人種である。

ワインなどと並べて語られる事もある葉巻も、手のかかる嗜好品だ。葉の種類、原産地、作成手順、保存方法、カットの種類、そして着火方法にいたるまで、様々な要因で味がガラリと変わってしまう。特に重要なのは保存だ。温度は15度から20度、湿度は68度から72度に保つのがベストといわれる。その奥深さを堪能するには「ヒュミドール」という専用の保管ケースが必要で、数週間から時には数年寝かせる事によって、その魅力的なフレーバーを楽しめるのだ。専用のケースで寝かせ、葉の香りを楽しみ、吸い口を好みの形にカットし、たっぷりと時間をかけて満遍なく着火…。これだけの手間を掛けても、紫煙をくゆらせる至福のひとときはたった1時間ほど。なんと「贅沢な一時間」だろう。この刹那の幸福に葉巻愛好家たちは惜しみなく時間を投資する。そのため、素晴らしい逸品を手に入れたはいいが、もったいなくて吸うに吸えない、というジレンマを抱えてしまう事もしばしばなのだが…。

男たちを惹きつけてやまないシガーの魅力

この「贅沢な一時間」に魅了された著名人は多い。有名原産地であるキューバの国家元首フィデル・カストロ、カストロの影響で葉巻を始めたといわれる伝説の革命家チェ・ゲバラ、シカゴマフィアの「ギャングスター」アル・カポネ、またマーロン・ブランドやチャールズ・チャップリン、フランク・シナトラ、マイケル・ジョーダンなど、世界的に有名な「男が憧れる男たち」に愛好家が多いのも葉巻の特徴だ。

 


H.Upman Naturals
(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

CIGAR COLLECTION(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

 

 


COHIBA(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

 

 

第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディも愛好家として有名だ。そしてこんなエピソードがある。ある日、彼は主席報道官を呼んでこう言った。「私は葉巻を大量に入手したいんだ。明日の朝までに」。報道官は「どのくらいですか?」と聞き返した。ケネディは答える。「H.Upmannを1000本ほどだ」。かくして翌日の朝、報道官が手を尽くして集めた1200本の葉巻を前にニッコリと笑ったケネディは、机の上にあったキューバとの交易禁止を決める書類にサインをした。大統領といえども、その葉巻の魅力に抗う術はなかったようだ。zigsowユーザーさんのもちものは、ケネディが愛したH.Upmannの中でもかなりレアな逸品。ケネディが見たならば、おそらく舌舐めずりした事だろう。

zigsowユーザーさんのもちものにある「Romeo Y Julieta」(ロメオ・イ・フリエタ、写真右)は、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルが愛した葉巻。第二次世界大戦中、極太の葉巻を手に国民を鼓舞する姿はあまりにも有名だが、そのパートナーであったのが「Romeo Y Julieta」だ。彼が好んだことから長さ178ミリ以上で直径18.65ミリ以上のものを「チャーチルサイズ」と呼ぶようになった。一方、zigsowユーザーさんのもちもの「COHIBA」はキューバのカストロが「最高の葉巻を作れ」と指示して生まれたブランドで、カストロ自身も愛飲した銘柄。このSigloⅠはコロンブスのキューバ発見500年を記念して作られたシリーズだ。コイーバは1968年創立とシガーメーカーにしては新しいが、すでに最高級シガーといえば必ず名前が上がるほどのブランドで、「ハバナシガーの王様」とも言われている。ちなみに、SIGROシリーズはⅠからⅥまであり、中でもSIGROⅥはハバナシガー最高峰と言われる葉巻ファン垂涎の逸品だ。

葉巻の発祥と現在

 

Davidoff(zigsowユーザーのみ閲覧可能)
さて、数々の男たちに愛され、時には著名人たちのトレードマークとして存在感を誇示してきた葉巻は、いったいいつ頃に作られたのだろうか。実は、まだはっきりと分かっていないのだが、古代マヤ文明の時代にはすでに存在していたという説が有力で、メキシコのパレンケ遺跡にある石柱には葉巻を吸う神の姿が刻まれているという。ヨーロッパが介入する以前のアメリカ先住民たちも広く喫煙の習慣を持っており、大航海時代の到来と共に全世界に広まっていった。

現在の形での販売は、1840年創立の「H.Upmann」や1845年創立の「Partagas」が老舗として有名。その後も1970年代まで次々と新ブランドが誕生し、現在は中南米を中心に数十社が生産を行っている。葉巻の一大生産地といえばキューバをまず思い浮かべるが、それ以外の国にも有力なブランドは多数存在する。たとえば元々キューバの企業だったのだが、キューバ葉巻の在り方に疑問を抱き、1990年に製造の全てをドミニカ共和国に移したブランドがzigsowユーザーさんのもちものの「Davidoff」だ。徹底した品質管理と専用の良質な農園を持つことでキューバブランドに負けない最高級の傑作を世に送り出し続けている。品質のブレの少なさやラッパー(最も外側の葉)の美しさも評価が高い。他にも、キューバに負けじと最高品質を求め続けるニカラグアのシガーブランド「PADRON」がある。特に創立40周年を記念して販売した「パドロン1926 40thアニバーサリー」はシガー専門誌で世界一の称号を得たほどの名品。キューバ産以外で唯一偽造品が存在する葉巻としても知られている。ちなみにお値段は、1箱40本入りで35万円也。

「葉巻を味わうことはひとつの出来事であり、くつろぎそして楽しみの期待のひとときでなければならない」(Davidoff創設者ジノ・ダビドフ)

至福の時を楽しむために…

TALISMAN(zigsowユーザーのみ閲覧可能)
CIGAR CUTTER(zigsowユーザーのみ閲覧可能)

葉巻に対して「きつくて苦い」という印象を抱いている人もいるが、正しい楽しみ方をすれば決してそんな事はない。愛好家には釈迦に説法ではあるが、興味があっても試したことがない人のために、いま一度シガーの楽しみ方をおさらいしよう。
葉巻きはラッパーという葉で吸い口が閉じられているため、吸う時にはまずここに吸い口を作る必要がある。その際に特別な道具が必要になるのだが、吸い口の口当たりの良さを重視するならシガーパンチがオススメだ。慣れてくれば、zigsowユーザーさんのもちもののようなフラットカット(ギロチンのように吸い口をカットする)やナイフを使って楽しむのもいいだろう。ナイフをサッと取り出しスマートにカットする姿は男のダンディズムを感じさせる。さて、吸い口に穴を開けたら、火をつける。まずは葉巻全体を軽くあぶり、先端にゆっくりと回すように着火する。この時、タバコのように吸いながら火をつけるのは厳禁。手に持ったまま、ゆっくりと。火が付いたら、軽く優しく吸ってみる。もちろん、肺には入れずに口の中で味わい、煙を吐き出す。注意すべきは灰だ。タバコを吸う人は灰をこまめに落としがちだが、葉巻の灰は固いので3センチ程度まで放っておくべき。前述したイギリス首相チャーチルは、演説の時に灰が落ちないように針金を仕込み、聴衆に「いつ灰が落ちるのだろう」という緊張感を与えて自分への集中力を切らせなかったという逸話もある。それは極端な例だが、その灰が先端の温度を調節してくれるので、常にある程度の灰が付いているのがベストなのは間違いない。あとは、焦らずに1分間に1度くらい吸って煙を味わえば、忘我の時を味わえるのだ。

Humidor(zigsowユーザーのみ閲覧可能)
 

冒頭にも書いたが、葉巻きは適切な環境で寝かせる事によって、味わいがさらに熟成される。その奥深さを存分に味わうのであればヒュミドールに保管し、数ヵ月後、1年後、数年後と分けて味わうべきだろう。ヒュミドールはそれなりに値段も張るがzigsowユーザーさんのもちもののようなインテリアとしても見た目の良いものが揃っているので、ぜひとも購入しておきたい。ワインと同じく、葉巻も熟成されて味が大きく変わる。一般的に、最も味わい深いのは5年から7年寝かせてからと言われているほど。数ヶ月後、数年後に味がどう変化するのかを想像するのも、葉巻の大きな楽しみ方のひとつだ。

無論、吸いたくなれば、我慢する必要はない。もう一度、数本入りの葉巻を購入し1本だけ味わえば良いのだ。こうして、ヒュミドールの中で自分だけの葉巻が育っていく。数年後、より濃密に味わい深くなった葉巻を楽しみながら、その年月に想いを馳せてみよう。数年分の重みを持つ「贅沢な一時間」…。それこそが葉巻の真骨頂なのだ。