やがて哀しき2ストローク
~サーキットの上のYH戦争~

消えた2ストロークバイク

2ストバイクが最も華々しく活躍したのは80年代~90年代。ロードレース世界選手権での日本製バイクの活躍と相まって、ワークスチーム(各メーカーが自己資金で結成するチーム)がレースで使用する技術をフィードバックした、レーサーレプリカと呼ばれるバイクを中心にブームを呼んだ。チャンバーがたたき出す高音域の排気音、刺激的なオイルの香り、独特の加速感と人馬一体と言う言葉がピッタリの乗り心地……。当時、2ストバイクは単車乗りたちの心をしっかりと掴んで離さなかった。

 

2ストロークバイクのエンジンの仕組みは簡単に言うとこうだ。現在、一般的な4ストローク・エンジンがピストンが2往復する間に「吸気」→「圧縮」→「爆発」→「排気」という4行程を行うのに対し、2ストローク・エンジンは1往復で「吸気と圧縮」→「爆発と排気」の4行程をこなす。つまり4ストは2ストの2倍回らなければ同じパワーを得られない事になる。おまけにエンジン自体が軽量。当時は速さを追求するのに理想のエンジンとも言われたのだが、1998年10月に実施された自動車排出ガス規制によって、各メーカーとも2ストバイクの生産・販売を終了してしまう。今回はその波乱に満ちた物語を辿ってみる事にしよう。

 

少年の心を掴んだレーサーレプリカたち

70年代から花開く2ストバイク文化を語る前に、1979年頃から1983年頃にかけて繰り広げられたホンダとヤマハによる「YH戦争」について軽く触れておこう。両社の関係はヤマハがバイク業界に参入する以前から続いていた。第2次世界大戦中、ヤマハ(当時の日本楽器製造)は戦闘機用プロペラを製造する事を軍から命じられるのだが、金属加工のノウハウがなく生産性が一向に上がらなかった。そこでヤマハの社長であった川上嘉市氏は、当時、同じ浜松市に本拠を置いていた東海精機重工業(現東海精機)の社長、本田宗一郎氏を頼る。彼はカッター式自動切削機を作りヤマハに提供。それにより工場の生産性が著しく向上する。その後も川上氏は本田氏を頼りにし、ヤマハがバイク業界に参入する際にも深く関わるなど、1950年代から1970年代中盤までの両社の関係は、まさに蜜月と言ってもよい良好な関係であった。少なくとも、周りからはそう見られていた。

1950年代、100社以上にも及ぶメーカーがしのぎを削った国内の自動ニ輪業界も、1970年代には淘汰が進みホンダ・ヤマハ・スズキ・カワサキの4大メーカーが市場を占めることになる。国内シェアは1位がホンダ、2位がヤマハ。だが1979年頃、両社のシェアは限りなく肉薄していた。当時のヤマハ社長・小池久雄氏は『ホンダが自動車に軸足を移している今ならば、オートバイ業界の盟主の座を狙える』と好機を見い出した。そして強気な生産計画と販売体制を敷いてホンダを猛追。一時はシェアNo.1の座に手が届くかに見えたが、当初のヤマハの楽観的な予想に反し、ホンダ側も業界盟主の矜持にかけてこれに応戦。争いは激しさを増し、やがて「スクーター3台セットで10万円」や「新車購入に自動ニ輪を1台付ける」などと、不毛なダンピング合戦へと発展していく。この争いは結果的に1983年にヤマハが白旗を揚げる事で終結するのだが、これに端を発した両社の争いはサーキットに舞台を移してさらに熾烈を極めた。これがレーサーレプリカのブームに大きく結びついてくる。

ヤマハはホンダとの前述の争いのさなかにあった1980年8月に「RZ250」をリリースする。1970年代、ロードレース世界選手権で無類の強さを誇ったヤマハはクローズドサーキットマシンの「TD-2」や「TZ」など、数多くの2ストロークのロードレーサーを送り出してきた。「RZ250」は当時の市販レーサー「TZ」のボアとストロークが同じということからレプリカモデルとも言われた一台。水冷2ストローク並列2気筒、35馬力。当時は400ccが人気を集めていたのだが、400cc並みの性能を持ち、車検もない250cc2ストロークマシンがこれ以降、俄然注目を集めていく事となる。くすくすさんのもっていたもの「RZ250R」は排気デバイス「YPVS」を搭載した2代目のモデルだ。また翌年発売された「RZ250」の兄弟、「RZ350(アールゼット サンパン)」も歴史に名を残す名車と言えよう。当初は輸出向けに生産されたのだが、160km/hから180km/hにスケールアップしたスピードメーター、強化されたブレーキやキャブレター、45馬力を叩き出すパワフルなエンジンなど、当時の750ccバイクと遜色の無い性能は走り屋たちからは“ナナハンキラー”と賞賛された。ただ国内においては、車検の問題から商業的に成功したとは言いがたかった。



「VT250F」 (zigsowユーザのみ観覧可能)

1970年から1980年代まで、ヤマハ・カワサキ・スズキは2ストロークを中心にレースに参戦し活躍してきたが、1970年代後半にレースへの参戦を再開したホンダは4ストロークで勝つ事にこだわった。これはレースだけでなく市販車へも広がり、ホンダはこちらのzigsowユーザのもちもの(zigsowユーザのみ観覧可能)にもある4ストロークマシン「VT250F」を1982年に発売。搭載された水冷4ストロークV型2気筒DOHCエンジンは同クラスの2ストローク並みの出力を誇りおおいにヒットするのだが、「RZ250」の登場によるレーサーレプリカブームの影にやや霞んでしまった感がある。

レースでの勝利が、そのまま市販車の人気につながった時代。ロードレース復帰当初は4ストロークをメインにしたホンダだったが、すぐにその限界に気付き、新たな技術を盛り込んだ2ストロークバイクの開発に着手している。こちらのzigsowユーザのもっていたものでもある1983年に発表した「MVX250F」だ(zigsowユーザのみ観覧可能)。最大の特徴は水冷2ストV型3気筒というユニークなエンジン。バランサーを用いず、前バンクの2気筒と後バンクに1気筒を回す事で4気筒並みのバランスと、40馬力という当時の250ccの中ではトップのパワーを叩き出した。しかし鳴り物入りでのデビューに反して、初期ロットでエンジンの焼き付きが多発。すぐに改善策が施されたが、今度は排気孔からオイルを多量に噴き出すなどの欠点が露呈。他社のバイクに馬力の面でも抜かれてしまったため、わずか1年で「MVX250F」は檜舞台から姿を消す。

その後を継いだのが1984年に発売された「NS250R」。ワークスマシンと同じ名を冠を冠したマシンだけあり、その性能にはホンダの意地が込められていた。アルミで造られたNSシリンダーやアンチダイブ機構、最適な排気脈動でトルクの増大を可能にする自動調整トルク増幅排気機構など、『技術のホンダ』のテクノロジーが惜しみなく投入された。そして上り調子であったワークスマシンをイメージさせるフルカウルは、「MVX250F」で2ストファンに抱かせた不安を拭い去るに十分なフォルムだった。

 

ヤマハとホンダがしのぎを削っていた頃、他の2スト陣営もただ手をこまねいていた訳ではない。中でも「RZ250」追撃の一番手だったのは、45馬力水冷2ストロークエンジンと市販車初のアルミ角パイプ製フレームを引っさげ、1983年に登場したスズキの「RG250γ(ガンマ)」だろう。低速でのトルクの弱さを忘れさせるほどインパクトのある高回転域での素晴らしい加速は何とも玄人好みな仕様。これまでになかったレーシングマシンそのままの姿と相まって、「RZ250」から主役を奪うに十分な要素を兼ね備えていた。写真のまっくさんのガンマは、1988年にフルモデルチェンジされて「RGV250γ(ガンマ)」と車名が変わった6代目にあたるモデルだ。


まっくさん
「RGV250γ(ガンマ)」(まっくさんのもちもの)

こうしたレーサーレプリカブームとライバルたちの追撃を受け、ヤマハは1985年に「RZ250」の後継モデル「TZR250」を発表する。アルミ合金製のフレーム・スイングアームの高剛性とレーサーらしいフルカウル、パワーバンドが広く高回転時の躍動感がずば抜けた45馬力のエンジン、コーナーをサラリと抜ける素直な回頭性…。乗りやすさを考慮しつつ速さをも追求した「TZR250」は多くの2ストファンに支持された。1989年に発売される2代目には、ホンダが「MVX250」で挫折し、市販レーサーであるヤマハの「TZ250」が成し遂げた後方排気システムも導入された。ちなみにhitojimaさんの「TZR250」は初代のモデルだ。


hitojimaさん「TZR250」hitojimaさんのもちもの

 

しかし、80年代以降のレーサーレプリカブームの主役はなんと言っても「NSR250R」だろう。「NSR」が世界に初めて姿を現したのは1984年。翌年、フレディ・スペンサーがNSR500とNSR250RWを駆って、ロードレース世界選手権の500ccクラスと250ccクラスでダブルタイトル(後にも先にもダブルタイトルを成し遂げた者はいない!!)を獲得する事で、その実力は世界に衝撃を与える事になる。この後のロードレースでもホンダは、250cc、500ccの両クラスで、まさに鬼のような強さを見せる。

infychanさんのもちものにもある「NSR250R」はそのレーサーレプリカとして1986年に登場。ワークスマシンの圧倒的な強さと相まって絶大な人気を集めた。その性能はとにかく『スピード命』という言葉がぴったり。極限まで直線スピードを追求した造りは、決して扱いやすいというモノではなかったが、ワークスマシンの速さを体感できるその性能に多くのバイクファンが胸を躍らせたものだ。実際、「NSR250R」は宇川徹(元WGPホンダワークスライダー)や青木三兄弟(宣篤、拓磨、治親)など当時のレーサーたちに数多くの勲章を与え、世界へと羽ばたくきっかけを与えた。

復活の時を静かに待つ

レーサーレプリカをきっかけに盛り上がった2ストロークバイクだが、1999年を最後に各メーカーとも2ストバイクの生産・販売を終了してしまう。1970年代以降、環境への関心が高まりから各国で2ストバイクの規制が始まり、また日本においても自動車排出ガス規制の基準が上がったためだ。シンプルな構造ゆえに燃焼効率は悪く、またエンジンオイルが混合ガスと共に燃焼してしまうため、炭化水素や一酸化炭素など有害物質が排気ガスに含まれるという欠点を克服する事ができなかった。もちろん、ロードレースのレギュレーションの変更やバブルの崩壊など外的要因は多数あった事も事実。

世界的な流れに抗い最後まで2ストロークバイクを作り続けていたのは、イタリアのオートバイメーカー・アプリリア。排気量別に数車種生産されるレーサーレプリカ・スーパースポーツ「RS」シリーズのクオーター「RS250」は、スズキの2ストロークバイク「RGV250γ(ガンマ)」のエンジンを使っている。日本では「RGV250γ(ガンマ)」の新車生産・販売が終了した後も生産されていたが、スズキからのエンジン提供が終了した2003年に、その生産を終える。


zigsowユーザのもちもの
「aprilia RS250」 (zigsowユーザのみ観覧可能)

現在、世界で生産・販売されるバイクの約4割が日本の4大メーカーともいわれている。そんなバイク王国であるにも関わらず、国内に目を向けると、最近はやや盛り上がりに欠ける感が否めない。バイク用の駐車スペースの不足やエコブームなど、その要因はいろいろあるのかもしれないが、一抹のさみしさを感じてしまうのは私だけではないだろう。2ストロークバイクの生産が終了してから10年と少しが経過したが、その人気は依然として高く、中古市場でも人気車種はいまだに高値で取引されている。バイク好きとしては世界に冠たる日本のバイクメーカー各社に、自慢の技術を活かした環境に優しい2ストロークバイクを開発して頂き、再びバイクブームを巻き起こして欲しいと願わずにはいられない。