旅の持ち物が変わった。
デジカメは、安いものでも高機能になり、メモ帳代わりに重宝する。時刻表や道案内を撮影しておくと大変便利だ。ボイスレコーダーも役に立つ。音声でしか記録できない時や物がある。この二つを併用すると取材稿をまとめる時、かなりはかどる。バックアップも取りやすく安心だ。デジタルの時代の産物だ。
一方で、相変わらず必携する古いものもある。双眼鏡だ。値の張る高機能で堅牢なものではないので、首に懸けて気ままに使っている。景観や動物たちを捉えるだけでなく、街角で看板を読む、駅で発着掲示を見るのにも便利だ。そして一番活躍するのが、夜空を見るとき。両眼で見るので、目的を捉えやすい。数年前、カリフォルニアに行ったとき、夜景に映えるゴールデンゲートブリッジと中空に浮かぶ満月を観て、時間の経つのを忘れた。双眼鏡をいつも持って行こうと思ったきっかけにもなった。
この夏、アメリカ中西部に行くプランをまとめた。50歳になった記念旅行でもある。巨木の公園を旅して以来、赤い荒野や巨岩、うねる地層や切り立った崖を見に行こうと決めていた。行き交うクルマのない一本道を半日走ったらどうだろう、苦労してたどり着いた谷底から見上げるナチュラルブリッジはどう見えるんだろうかなどと旅のプランは膨らむ一方だった。
そんなタイミングで、BORG望遠鏡を借りられるという話を得た。記事「16年ぶりの天体望遠鏡」、このコピーにふたつ引っ掛かりがあった。天体望遠鏡とはハードルが高いな。天文写真など撮ったことはおろか、じっくり観たこともない。高校に銀色のドームはあったが、近づいたことすらない。そもそもあんな大きな筒を持ち運べないしな。文字通り、身に余るな。という思い。
そしてもう一つは、少年のころの趣味を復活させるということ。昔あこがれていたことができる歳になって、思う存分楽しんでいる様子が想像できた。いうまでもなくわれわれは、夢のようなアメリカの生活文化をテレビで覗きながら、東京五輪、新幹線、アポロ11号、大阪万博というように実感してきた世代だ。子供時分に欲しかったものは山ほどある。メンコやビー玉、古切手と同列に、プラモデル、スパイセット、トランシーバー、レーシングカー、ウルトラマシン(室内野球のバッティングマシン)などを欲しがった世代だ。特に科学とその広報活動の発展期だったので、その手の高額機器は垂涎の的だった。電子ブロック、顕微鏡、そして天体望遠鏡。これが20世紀少年の三種の神器なのである。月があんなふうに大きく見えたらうれしいな、遥かかなたに見え始める奇岩を捉えたり、森の動物も観察できるかも。着脱式でコンパクトに運べるとの説明を読んだときには、もう持ち物リストの中に入れていた。
機器が到着した。確かにコンパクトだ。カメラバッグがあれば、余裕を持ってすべて収まるサイズだ。緩衝材のウレタンフォームで包むだけのわたしだとパッキングはなお小さい。ただ、初めて扱う機器だけに、部品の名も役割もわからない。ともかく組立図に従い、セットしてみる。コンパクトといっても、片手で支持してピントを動かすのは至難の業だ。三脚に取り付け、両手を使えるようにした途端、異常な光量で満月が飛び込んできた。うわぉ、声が出た。ゆっくり焦点を合わせると、いままで写真やテレビでしか見たことのない月のクローズアップが現れた。
その後出発まで一週間ほどあったので、昼間に風景を見ることなどで慣らしていった。もっと余裕があれば、カメラとの接合も万全になったのだろうが、今回はそこまでは追わないことにした。ただし、卓上でも使いやすいように、足の短い三脚だけは新たに用意した。
今回の旅も、ロスアンゼルスを in/out のゲートシティとしたが、早めにアリゾナに入りたいので、行きはフラッグスタッフまでシャトル便を使った。遊覧飛行のような楽しい景色を堪能したあと、クルマを借り出してダウンタウンのモーテルについたのは日没のころ。夕食からの帰途、ほぼ中空に、盛りを過ぎた大きな月が浮かんでいた。ほろ酔いながら初日から行くぞ、と荷を解きながら三脚にセットする。
フラッグスタッフは、コロラド高原の南西の端。標高は2,000mを超える。冥王星を発見した天文台もある町だ。やはり空気が澄んでいる。星もたくさん見える。練習どおりに月を捉えることができた。視野全体に輝く月。海の部分に所々輝点が見えるが、そこから星のように白い帯が放射状に伸びている。これは初めて見た形だ。影の縁を注意して見る。クレーターの凹凸がよくわかる。大小さまざまなでこぼこが一つ二つと数えられそうなくらい明瞭だ。あばたではなくチャーミングなエクボだよ。
よし、撮影だ。アリゾナの麗人を記録に残す。記憶にはしっかり焼きついたが、ニッポンのみんなにも見せてやりたい、というか羨ましがらせたい。月はどこで見たって同じさ という人にも、今月今夜のこの月を見せてやるのだ。
今回携帯したカメラはおしゃれなコンパクトタイプで、前述のようにアダプタがない。接眼面にレンズを向けて、モニター画面で調整するしかない。何度練習しても満足いく撮影ができなかった難所だ。おまけに気温も低い。寒さで操作も鈍くなりがちだ。そこで、10秒セルフにしてシャッター押下時にぶれないよう両手で支えるようにした。この10秒間に光軸を合わせるのだ。だいぶ慣れたころは、2秒セルフにした。AFなので気まぐれなピントになるのも試行錯誤でわかってきた。きれいな像が結べるようになった数回目に撮った写真がこれだ。パソコンで大きく再生してみると、さらに迫力がある。
一気に疲れが出た。片付けも簡単ですぐにスーツケースに仕舞える。ベッドに横になるが、時差もあってか、興奮のせいなのか、眠くはない。しばらくネオンの瞬きと黒い空を見ていた。今回の旅、幸先がよい。
夜明け前にクルマを走らせる。20分ほど行った先に、サンファン川が大きく蛇行して川底を深く刻んだ絶景ポイントがある。その曲がり具合が、ガチョウの首のようなのでグースネックと呼ばれる州立公園がある。この周辺には、コロラド川をメインに、大きな川がたくさんあるが、いろいろなところでこういった風景に出会える。U字のものを馬蹄だと呼ぶホースシューベンドというところも有名だ。ここグースネックは、足回りがよい。ナビを頼りにしなくても、国道や州道を走り継いで標識に従えばそこが公園。パーキングの真横がこのビューポイントになる。クルマの中で望遠鏡をセット。じきに日の出なのでキャンプ客も起きてきた。ベンチに三脚をセットする。暗かった岩肌に朝日があたり、色が一気に変わってくる。ネックの尾根から谷に向かって明るい陽が射し始める。絵としては広角レンズの独壇場だが、望遠も面白い。ずっとむこうに、モニュメントバレーの岩山が見えるのだ。エメラルド色の川、段々がさまざまな色に塗り分けられた崖、地面を覆う赤い砂と白い礫、その向こうに陽炎のような残丘。写真をとり終えたアメリカ人が寄って来てファインダーを覗かせてくれという。oh!と驚き、いろいろ尋ねてくる。組み立て式でこんなに小さくなって便利だというと感心することしきり。BORGというロゴを見て、ドイツ製かと聞く、いや、ではスカンジナビアンかとも。いや、Made in Japanと伝えてやる。日本製だという読みがなかったのかな? いや、使っているおまえの風貌のせいだよ、と同行の友が言い当てた。
今日も夜明け前にクルマを出す。遥か波打つ道路の先に、台形や盾の形、槍の形、天空を指差すミトンの形など特異な岩がシルエットで映える有名なポイントに行く。著名な観光地であるモニュメントバレーに行った人は多いと思うが、この景色を見られなかったという人も少なくない。というのは、一般のアプローチからだとこのポイントは裏にあたり、時間の限られたツアーでは、そこまで廻って見ることをしないからだ。いったん入場すると、周囲は見たことのある巨岩だらけで興奮する。園内を走ればあまりの大きさや広さに唖然としてしまうし、初めて見る奇岩も多く、すっかりそのポイントのことを忘れてしまう。帰国してから、あれこれって見たかしら という具合。昔はタバコのCFでよく使われていた気がする。「フォレストガンプ」の舞台にもなったビューポイントだ。
その一本道に布陣する。何組かがすでに来ていてカメラをセットしている。吐く息が白い。何度かバウンドして、最後の窪地に下った道が大きく跳ねて向こうで見えなくなった先に奇岩の群れが鎮座する。東面する部分から火が点くように朱色に染まっていく。尖塔の影が隣のテーブルに長く影を落とす。近くに寄ればはっきりわかるのだが、この大岩、縦に割れ目があるのはわかるが、積み重ねた地層の色の違いで横縞も持っている。ビターとホワイトのチョコレートが重なっているように見える岩もある。この距離では、さすがにこう形容できるほどはっきりは見えないが、望遠鏡を使うと横の縞もあることが確認できる。わずか10分ほどで、光と色のショーは終わり、赤と茶の世界が日没前まで続く。夏季ならば灼熱の世界だ。今度機会があれば、日没前から長くとどまり、明るい星の光跡をとどめた写真をものにしたいものだ。
昼近くになってバレードライブに入り数時間残丘・巨岩めぐりを堪能する。おしまい頃、小さな砂嵐に遭った。荷台に乗って巡るツアー客は悲惨だ。頬被りにマスクというご婦人もいる。粒子の細かい砂なので、精密機器だとメインテナンスが大変だ。だが、われらのBORGは先刻分解されスーツケースの中。この機動性が一番の利点である。
アメリカには国立公園局という連邦機関があって390ものエリアがある。そのなかでも、一、二の人気を誇るのがユタ州のザイオンだ。気が遠くなる深さの大渓谷・グランドキャニオン(アリゾナ州)、神秘の色の泉と間欠泉・イエローストーン(ワイオミング州など3州)などが超個性派の代表なら、ヨセミテ(カリフォルニア州)とこのザイオンはあらゆる要素を兼ね備えたオールラウンドプレーヤーといえまいか。山、岩、鉱物、森、河、滝、池、花、動物。大自然の要素が何でも揃っている。つまり年中いつ行っても旬の楽しみが待っている公園だ。もっとも印象深いのは、岩山だろう。アメリカ中西部は、どこも芸術的な岩ばかりだが、この地の岩はスケールが違う。落差千数百メートルの山あるいは一枚岩が林立している。しかもその山が、流れるバージン川のおかげで、豊かな植生を持つ。われわれは、黄葉の盛りといえる時季になった。河に黄葉ときに紅葉がはらはら流れるのを見て、トレイル(散策路または登山道)では落ち葉を踏み、山葡萄やどんぐりを食む鹿に出会う。急坂の連続で汗をかいたすぐあとに、虹を描く滝の出迎え。
そんな公園めぐりの醍醐味を堪能したのだが、さらなる幸運が。園内のロッジに空きが出たのだ。麓の町のモーテルを廻ってみて、当日でも早い時刻なら部屋が押さえられると踏んでいたので、それらでは予約はせず、公園のセンターに行ってみた。今夜はないが明日なら山に面した二階のロッジが取れるとのこと。急ぎ予約を入れる。戸外にはベンチ、軒下にはアームチェアがあって、のどかに談笑する夫婦の姿も見られる。館内の吹き抜けには暖炉があって、チェスに興ずる人、厚いペーパーバックを読む人など思い思いに寛ぐ。何日も滞在する人たちだろうと思う。
そんな絵になるところなので、当然ながら、ベランダに三脚を据えて稜線を観察する。夕方の日が沈んで、カラーからモノクロの世界に移ろう時を静かに見つめる。カラスかトンビか、中型の黒い鳥が山の向こうに消えた。夏ならば天文ショーの始まりだろう。
帰国するまでに、いくつもの公園を巡って帰ってきた。山越えの州道では、雪を見た。日陰のものは今季の根雪になるものらしい。麓で給油したときは、アイスクリームを食べたばかりなのに。こんなことにもアメリカの大きさを実感してしまう。当初は予定のなかったデスバレーにも足を伸ばした。停車して耳を澄ましてもなにも聞こえない世界。さすがのBORGをしても対向車も後続車も見えない超ロングの一本道を何本も走った。ラッキーなことにこの公園でも、園内のロッジに泊まれた。夜半、砂丘に行って横になる。溢れんばかりの星の世界。天の川をここまではっきり見たことはなかったと思う。あまりにも星が見えすぎ、わずかばかりだが知っている星座ですら見失うほど。初めて星団というものも分かった。飽きずに、小一時間眺める間に、流れ星を見ることもできた。知識と技術があればBORGがフルに活躍しただろう。光の泡のような星雲の写真、星座の見本帳のような写真も撮れるかもしれない。
だが、それは次回の楽しみにしておく。旅は計画しているときから楽しむ。それが「地球の歩き方」のモットーだ。こんな機材を手配する、それをどこで使う、そのための仕掛けをどう用意するとか、今からもうワクワクしている。そんなのは夢の計画だと笑われるが、わたしは実現できると確信している。なぜなら、あの流れ星に頼んでおいたからだ。もう一度、この場所、何億年も前の大地で、何億年も前に発せられた光を見せてください、と。