このグループは僕以外のメンバー全員がライカを使っていた。ヨーガンはブラックペイントのM2、クリスはライカフレックス、その他M3、M4、M5と全て揃っていた。初めて彼らのライカを見た僕の感想は「ライカとは何だろう?」という素朴な疑問だった。それまでニコン一辺倒で疑いもなかった僕の中に、新たに“ライカ”という存在が現れたのだ。このアトリエの倉庫には時折有名な写真家が遊びにきた。その中の一人、マグナムの会員であるジョセフ・クーデルカは時にM3を2台、時にM4を2台、ガチャガチャぶつけながら胸に下げていた。
ある晩、彼が僕の部屋に泊まっていった。夜遅くまで、僕の写真を見ながら、彼と写真の話を続けた。祖国チェコスロバキアを捨て、いつも一人きりで各国を旅し、ジプシーを撮り続けている彼に僕は尋ねた。一人で寂しくないのか?写真家になったことを後悔することはないのか?と。
「一度決めたら後ろは見ないさ。後悔なんてしてないよ」そう答えた彼の言葉は、これから写真家になろうとする僕の心に、力強く響いた。
ある日、メンバーの中で一番若く美しかったジェシーのライカM2に、そっと手を伸ばして触れてみたことがあった。静かに、だが確かな光沢を放つその端正なボディーとレンズに、神々しいものを感じた。グループの中でジェシーが最も優れた作品を撮っていた。美しく立体的な光と影、派手であるがひしひしと伝わってくる構図力。僕はたまに暗室やテーブルの上に置かれてあったジェシーのプリントに、いつも憧れ、彼女の世界に吸い込まれそうになったのを憶えている。
「僕もいつかジェシーの様にライカで写真を撮ってみたい。」
1977年の写真展は成功を収め、我々の名前は少なからずイギリスの写真界に知られることとなった。その後グループは解散し、メンバーとも離ればなれになり、アトリエだった倉庫の閉鎖と共に僕は知人宅へ引っ越した。写真展が終わると、また一人の生活が始まった。運良く日本の音楽雑誌の仕事がいくつかきたがギャラは安く、生活費に追われ、とてもライカを買うどころではなかった。
一日三回の食事のうち、二食はポテトで空腹をごまかすのが日常だったし、ビザ延長の問題や生活費の困窮、そして孤独・・・問題が常に心の中に山積していた。 しかし優しい救いの手が、たびたび僕に差し伸べられた。友人は温かい食事を作って僕にご馳走をしてくれたし、知人宅に居候もさせてもらった。親切な人々に助けられ、僕は命をつないでこられたのだ。今、思い出しても感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。