1973年23才でロンドンに半年の滞在予定で出発した時、僕のカメラバッグの中には2台のニコンFと1台のニコンSPが入っていた。ロンドン滞在中、ヨーロッパのカメラ愛好家が僕のニコンFを見て、羨望しているのが強く感じられた。2台のニコンを首から下げていると“Oh! Two Nikons!!”と、すれ違った人が感嘆の声をもらした。ニコンは僕の誇りだったし、精神的な支えだった。
1975年の夏に差しかかっていた。生活費を稼ぐためにアルバイトのつもりで始めた劇団での役者を100回目の公演を期に辞め、ロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーというところに写真を見に行ったときのことである。僕は二人のイギリス人の青年写真家に出会った。年令は僕と同じ20代の中頃だった。彼等は自分たちのアトリエに僕を招待してくれた。イギリスの夏は湿気がなく清々しい。濁りのない青い空が頭上に広がっていた。ロンドンブリッジの駅から倉庫が連なる道をしばらく行くと目指す建物があった。テムズ河のすぐそば、大きな4階建ての倉庫が彼等のアトリエだった。地下室は大きな暗室、2階はキッチンとリビング、3~4階にミーティングスペースと個人の部屋がいくつかあった。
「メンバーは10人いてね、3年後に大きな写真展を企画しているんだ。」「僕たちにはスポンサーがいて、ここの家賃、フィルム、印画紙などをまかなってくれているんだ。」そう言いながら、次から次へと僕を会員に紹介してくれた。
「なんてうらやましい環境なんだろう!!」日本には決してない、文化の底力だった。
グループの中に、五十がらみのドイツ人のヨーガンというリーダーがいた。彼がこのグループの代表者兼ディレクターで、他のメンバーは僕と同じ20代の若者だった。翌週、僕はヨーガンに一晩暗室を使わせてもらえないかと頼んだ。彼とメンバーは快く僕のリクエストに応じてくれて、100枚入りのキャビネの箱を一つ僕にくれた。日本を発って2年、僕はそれまで撮影したフィルムを押し入れで現像して、ネガとして保存していた。一晩かかって100枚のプリントをした翌朝、ヨーガンに「僕の写真を是非見て下さい。また来週こちらに伺います。」と言って写真を手渡し、僕は徹夜した目をこすりながら家路についた。
翌週、僕は再び倉庫を訪れた。みんな優しく僕を迎えてくれ、そしてヨーガンが言った。「ハービー、君の写真を見たよ。君の写真は我々の目指している、人間の生きる姿をありのまま捉える方向性と真に一致している。そこで、みんなで議論したんだ。どうだろう、今日から君もここのメンバーに入らないか?なんだったら今から空き部屋に引っ越してきたっていい。ビザの延長も我々が出来るだけのことはする。」全く予想だにしなかった素晴らしい話の展開だった。僕はすぐさま「お願いします」と固く握手を交わし、メンバーになることを決めた。最初にフォトグラファーズ・ギャラリーで出会ったクリスとエイドリアンも嬉しそうだった。
お金も、友人も、ビザの延長も総てに心細かった僕には夢のような出来事だった。