プロの写真家になることは、中学2年生で写真部に入部してすぐに決めたことだった。 それまでは音楽家を志してブラスバンド部に入部しフルートを手にしていた。しかし、体が弱いこともあって朝の練習について行けず、音楽のセンスのないことにもうすうす気付き、退部した。中学2年生で写真部に入り、写真活動はマイペースで続けられることを知り、音楽より自分に合っていると実感した。
1964年、当時中学3年生の僕が一番欲しかったのは、ニコンFという世界中のプロ写真家が信頼を置いている日本のカメラの傑作機だった。他のカメラより、ずば抜けて高かった。この日本で最も高いカメラを使うことで僕は写真家になりたい夢を、固い決意にまで押し上げたかったのだ。僕がこのカメラを買ったのは、中学から高校へ上がる春休みのときであった。「もう後へは戻れない」そんな強い意志が、このカメラから聞こえてくる様だった。
ところで僕のハービーという作家名は、一度手放したフルートを引っ張り出し、友人数人とバンドを作って遊んでいた時につけたニックネームだ。
ある日バンド内で、洋風の名前をつけようと仲間の一人が提案した。そのときすぐにひらめいたのが、僕が目標として憧れていた、アメリカのジャズフルート奏者“ハービー・マン”の名前だった。「おれは断然ハービーがいい!!」その声に誰も反対しなかった。仲間たちも次々に、ジェフ・ベックが好きでジェフ、ポール・マッカートニーからポール、スティーブ・マックィーンからスティーブ、アラン・ドロンからアランと、身の程をわきまえない名前が挙がったが、結局仲間内で定着したのはハービー、ジェフ、ポールの3人だけだった。昨今大ヒットを飛ばした「崖の上のポニョ」の主題歌で、大橋のぞみちゃんの後ろで歌っている藤岡藤巻なる中年二人が、実はこのジェフとポールなのである。
僕はハービーという響きがすごく気に入っていた。そして、心の中にはもうひとつ、ハービーという名前に対する深い思い入れがあった。
それは生後3ヶ月でカリエスという骨の病気を腰に患ったことから話は始まる。コルセットを上半身にはめ、身体の半分はお風呂に入れないという生活が何年も続いた。腰の痛みと将来への絶望感を常に抱きながら幼少・少年期を過ごした。友達もできず、みんなの輪の中に入れてもらえなかった。遠足に行っても僕は母と、みんなから少し離れたところでお弁当を広げた。孤独と絶望と戦う毎日だった。高校に入ってから、やっと僕はコルセットから解放され、軽い運動ならしてもよいとお医者様に言われた。それから少しは元気になって、20才の頃、バンドに参加した。「俺に健康な第二の人生がある」そう思うと、初めて“青春”という明るい響きが自分のものになった気がした。
ハービーという名前で、これからの人生をしっかりと生きてみようと思った。それまでの仲間はずれにされていた自分とは違う、明るく、夢を持ち、笑顔が溢れる、人から好かれる人間像を“ハービー”という名前に重ね合わせた。それから30年以上、僕の名前はハービー・山口だ。