別の男にフラれ自暴自棄になっているハクい女が、
♪お嬢様じゃないの わたしただのミーハー
だからすごくカルイ 心配しないでねー
って誘うなんてのは、男からすると“据え膳喰わ食わぬは男の恥”ってな、
まさに垂涎もののシチュエーションである。
そこがこの歌の「戦略性」かと言うと実はそうではない。そんな、男にとって都合のよい歌詞は、「あなたが望むなら私なにをされてもいいわ」の山口百恵性典路線の頃からアイドル歌謡の常套テクニックだ。どっちかって言うと、本人の意志などお構いなしに、“こんな歌詞歌わされてちゃってる”サディスティック感にこそ、当時の百恵ファンは萌えたんである。森高の新しさは、こんな思わせぶりな歌詞を本人自身が書いちゃってるってとこだろう。本人作詞ってことで、あからさまな虚構は、虚実綯い交ぜのビミョーな線にシフトする。「女もこんなこと考えてんのか?」「いや戦略だろう?」って。いずれにしても、もう“プロ作詞家が作った思わせぶりな歌詞をアイドルに歌わせれる”って地点に後退することは出来なくなった訳で、そう考えると森高は従来型のアイドルに終止符を打った存在と言える。「ミーハー」のあとの「だいて」なんかも、あのルフランは本人作詞だから価値があるのであって。そして「ミーハー」や「だいて」の時点では、まだ“男視線”だけを意識したかに見えていたあざとさは、後に“女の子の本音”として同性からの支持を得るようになる。「ミーハー」や「だいて」も“男視線”の文脈だけでなく、“お嬢様として世間から抑圧されている女の子の本音”って文脈も、もちろんあるわけで。当時「ほんとに本人が書いてるのか?」なんて疑惑もささやかれたけど、本人が歌詞を書くっていう森高的ポスト・アイドルのスタイルって浜崎あゆみまで脈々とつながってるもんね。