写真家ハービー・山口のフォトコラム 第三話

心ざわめく写真

Dancing Flag LONDON 1981
1981 LONDON

2007年・東京。

長かった寒い冬がようやく終わりを告げようとするころ、街のショーウィンドウには春を予感させる色がちりばめられていた。

銀座に行くと決まって訪れる、スキヤカメラやレモン社を覗いたあと、僕は一ヶ月ぶりにライカショップへ足を運んだ。僕はこの店のスイングドアーを開ける瞬間、いつも独特の高揚を感じる。ここは浮世離れしているというか、扉の向こうに現実とは違う世界が広がっているように感じるというか・・・、とにかくライカを扱う他の店には決してない、神聖さが宿っているような気がしてならない。ここでライカを買ったお客さんは、一生この店の空気を忘れることができないだろう。

PIPE BRIGHTON 1973
1973 BRIGHTON

ショップの2階はギャラリーになっていて、点数は限られているものの、高名な写真家の作品展が月毎に開かれる。そこを訪れるのも大きな楽しみの一つだ。

2階のギャラリースペースに上がると、昨日から始まったという作品展が開かれていた。僕は写真家の名前もよく見ないまま、モノクロで飾らない人間をスナップしたプリントの前に立った。このギャラリーの整然と、そしてシンプルな展示が格式高く、写真をより高貴なものに見せている。それにしても、今回の写真展の作品は無駄なものが削がれていて実に清々しい。

そして、時間をかけて一枚一枚見るごとに、僕の中に得たいの知れない興奮が湧き起こってきた。この写真群のテイストが、ロンドンでお世話になった写真家グループのスタイルと驚くほどに一致しているのだ。僕は湧き上がる興奮を抑えながら、改めて写真家の名前を確認した。ファーストネームは「ヨーガン」ドイツにはよくある名前だ。正しい発音は分からないが苗字は「シャーズベルグ」これは、ドイツではよくあるファミリーネームなのだろうか・・・。1975年、ロンドンで初めて僕の写真を認めてくれて、唯一の日本人としてグループへの参加をメンバーに提案してくれた彼は「ヨーガン・シャーズベルグ」というドイツ人だった。まさか・・・!

代官山17番地より1 DAIKANYAMA 1996
1996 DAIKANYAMA

僕は携帯電話でライカジャパン社のY氏に電話をした。「ヨーガンさんは、1975年頃ロンドンに住んでいましたか?若い頃はドイツから南アフリカ共和国に移り住み「ドラム」というジャーナル誌で写真家として活動していましたか?」僕は自分の知っているヨーガンについての情報をY氏に伝えた。「ええ!ハービーさんのおっしゃるとおり、彼は70~80年代にかけてロンドンに住んでいました。南アフリカでは写真の父、と呼ばれているそうです。」間違いない、これは僕がお世話になったヨーガンの写真だ!

本人は日本に来ているのかとY氏に尋ねると、彼の代わりにキュレーターのドクター・セイペルという方が来日しており、明日には帰国予定とのこと。僕は「セイペル氏に会いたい」とY氏に相談すると、快く連絡を引き受けてくれた。さらに「ライカギャラリー以外の日本のギャラリーで個展を開きたいと、ヨーガン本人の希望があるらしいので、そのお話をしたら喜ぶと思います。」と教えてくれた。

その日の夜、宿泊先の帝国ホテルのカフェでドクター・セイペル氏と会った僕は「ヨーガンからQUALITY OF LIFEという写真家グループのことを聞いたことはありませんか?」と尋ねた。「YES、彼はいつも懐かしそうにそのグループのことを話すんだ。そうか、君はそのグループの一員だったんだね。日本で活躍している君のことを話したら喜ぶだろう!そうだ、今年、彼の最新写真集が刊行されるんだ。世界中にディストリビュートされるこの本に載せる、ヨーガンについてのエッセイを寄稿してくれないかね。ロンドン時代の彼を一番知っているのは君だから。」もちろん僕は快諾し、現在フランスに住んでいるというヨーガンに、自分のロンドンの写真集を渡してくれるようにセイペル氏に託した。